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第十七部 粉挽き場の秤と、軽い銀貨の話 ② 秤と村人

 リンデンの粉挽き場は、村の北端にあった。


 小川から引いた水路が、木の樋を通って水車へ落ちる。


 水車はゆっくり回っていた。


 ぎい、ぎい、と木が軋む音。


 石臼の低い響き。


 粉袋を引きずる音。


 乾いた麦の匂い。


 それらが混ざって、粉挽き場の中は白っぽい空気に満ちていた。


 光の筋の中に、粉が舞っている。


 息をすると、少し喉に張りつく。


 壁には順番札が掛かっていた。


 木札に名前。


 数字。


 支払い済みの印。


 未払いの印。


 そして、揉め事を示す赤い紐。


 赤い紐が、思ったより多かった。


「多いな」


 俺が言うと、粉挽き場の女主人が振り返った。


 年は五十前後。


 腕が太い。


 髪に粉がつき、眉まで白くなっている。


 名はマルタと言った。


 粉挽き場を仕切る女だ。


「多いよ。昔は、順番で揉めるだけだった。今は、銀で揉める」


「順番で揉めるのも面倒そうだ」


「順番なら怒鳴れば済む。銀は怒鳴っても軽いままだ」


 いいことを言う。


 粉まみれの女主人は、国庫の官僚より貨幣を知っている顔をしていた。


 リューリックが一礼した。


「サンドルと申します。本日は帳合いと硬貨確認をお手伝いいたします」


「こっちの包帯男は?」


「ロド・カナリ。便宜上は傭兵」


「便宜上ね。最近、便宜上の人間が多いね」


「そういう時代らしい」


「嫌な時代だ」


 マルタは鼻を鳴らした。


「で、何ができる」


「喋れる」


「粉袋は担げない?」


「担ぐと、町医者の娘に殺される」


「それはやめときな。ニーナは怒ると、父親に似て目が怖い」


 ニーナの父。


 死んだ町医者。


 ここにも、その名前のない気配が残っている。


 診療所だけではない。


 村の粉挽き場にも、父の記憶は少し残っているらしい。


「知ってるのか、ニーナの父親を」


「知ってるよ。流行病の時、うちの亭主を三日延ばしてくれた」


「三日」


「三日だ。助からなかった。でも、娘と話す三日はできた」


 マルタは、粉袋を積み直しながら言った。


「だから、あの診療所には借りがある。ニーナにもね」


 助からなかった命を、三日延ばす。


 それは勝ちなのか負けなのか、俺には分からない。


 だが、マルタの声には、恨みではなく、借りという言葉があった。


 医療は、必ずしも救うだけではない。


 間に合わない時にも、何かを残す。


 ニーナの「最後の一本を、最後にしない」という言葉が、粉の匂いの中で少し重くなった。


「こっちは臼番の表。こっちは支払い。あんたたちは、その机で銀を見てくれ」


 マルタは俺たちを粉挽き場の隅へ案内した。


 小さな机。


 秤。


 重り。


 帳簿。


 そして、村人が持ち込んだ銀貨が入った木皿。


 リューリックの目が、少しだけ鋭くなった。


 彼が戦場で剣を抜く前と、少し似ている。


「殿下」


「何だ」


「これは、思ったより悪い状況です」


「見ただけで分かるのか」


「銀貨の顔色が悪い」


「ニーナみたいな言い方をするな」


「影響を受けております」


 リューリックは、一枚ずつ銀貨を並べた。


 王国銀貨。


 ブリエン銀貨。


 グランデル小銀貨。


 レヴォナ軽銀。


 それに、刻印を削ってどこのものか曖昧にしたもの。


 銀貨の顔が、粉まみれの机の上に並ぶ。


 みな似たような顔をしている。


 だが、重さが違う。


 混ざり方も違う。


 人間の嘘より、ずっと静かな嘘だった。



 ◇



 午前中、粉挽き場には村人が次々に来た。


 袋を抱えた老婆。


 炭焼きの男。


 子どもを連れた若い母親。


 難民らしい痩せた男。


 近隣の小作人。


 それぞれが麦袋を置き、順番札を確認し、銀貨か銅貨を出す。


 そこで揉める。


「昨日の市では通った」


「こっちでは軽い」


「軽いって何だ。同じ銀だろう」


「同じ顔で重さが違う」


「そんなの知らないよ」


 同じ会話が、何度も繰り返された。


 リューリックは一枚ずつ秤にかける。


 俺は横で、村人に説明する。


 というより、怒られ役になる。


「何で傭兵が銀を量ってるんだい」


「傭兵にも、粉を食う権利がある」


「粉を食うなら働きな」


「働いてる。俺は今日、粉挽き場の口だ」


「口だけかい」


「肩がこうだからな」


「じゃあ、よく喋れ」


「任せろ。喋るのは得意だ」


「自慢にならないね」


 村人が笑う。


 笑うと、少しだけ怒りが薄まる。


 怒りが薄まったところで、リューリックが銅貨換算を提案する。


 マルタが「それなら粉はこの量」と決める。


 ニーナの時と同じだ。


 笑いは、問題を解決しない。


 だが、問題の前で人を止まらせる。


 止まらせた隙に、帳簿や秤が仕事をする。


 俺の口も、たまには役に立つ。


 認めたくないが。


 昼前、若い男が来た。


 身なりは村人ではない。


 旅商人に近い。


 外套は少し良い。


 靴は泥を嫌がる歩き方をしている。


 手には革袋。


 顔には、自分は正当な取引をしているという種類の笑み。


「粉を十袋、先払いしたい」


 男は言った。


 マルタが眉を上げる。


「十袋? どこの分だい」


「この先の宿場へ運ぶ。金はある」


 男は銀貨を出した。


 レヴォナ軽銀。


 しかも、数が多い。


 リューリックが一枚を手に取った。


 指で弾く。


 音を聞く。


 目が少し細くなる。


「これは額面どおりには受け取れません」


「またか」


 男は笑った。


 笑い方が、昨日の行商人と少し似ている。


「田舎は銀にうるさい。だが、近いうちにこの銀しか回らなくなる」


「なぜだ」


 俺が訊くと、男は俺を見た。


「怪我人が何を知りたい」


「痛い奴代表として、粉の値段には興味がある」


「粉より命の心配をしたらどうだ」


「粉がなければ命も心配になる」


 マルタが、低く笑った。


「その通りだ」


 男は少し不機嫌そうに俺を見た。


「レヴォナの銀は動く。動く銀は価値がある。重さだけ見てる村は、置いていかれるぞ」


 リューリックが静かに言った。


「動く銀が、誰の手で動かされているかが問題です」


「商人の手だ」


「どこの商人ですか」


「自由都市の商人だ」


「名は」


 男は答えなかった。


 答えない。


 それだけで、粉挽き場の空気が変わった。


 水車の音が、急に大きく聞こえる。


 マルタが腕を組む。


「十袋は売れないね」


「金は払うと言っている」


「軽い銀で村の粉を持っていかれたら、残るのは軽い銀と腹を空かせた子どもだ」


「商売を知らない女だ」


 男が言った。


 その瞬間、粉挽き場の空気がさらに冷えた。


 マルタの目が、粉より白くなる。


 俺は、あ、これは危ない、と思った。


 ニーナなら薬箱で殴る。


 ヘルマなら湯かき棒で叩く。


 マルタは、たぶん粉袋で殴る。


 粉袋は重い。


 下手をすると死ぬ。


「マルタさん」


 俺は慌てて口を挟んだ。


「ここは俺が」


「怪我人、邪魔するなら粉袋ごと挽くよ」


「それはやめてくれ。俺はまだ粉になる予定はない」


 村人が少し笑った。


 ほんの少しだ。


 だが、男の言葉で尖った空気が、わずかに揺らいだ。


「商人さん」


 俺は言った。


「粉十袋を欲しがるなら、重い銀を出せ。軽い銀で買いたいなら、買える粉も軽くなる。当たり前だろ」


「俺を侮辱しているのか」


「違う。銀を侮辱している」


「何?」


「同じ顔をして軽くなった銀が悪い。あんたが悪くないと言うなら、重さを量ればいい。量られたくないなら、あんたも悪い」


 男の顔から笑みが消えた。


 リューリックが、一歩だけ前へ出る。


 剣は抜かない。


 だが、足の位置が変わった。


 相手が机を蹴っても、銭箱を守れる位置。


 俺は、そういう細かい位置取りだけは妙に分かるようになってきた。


 男は、しばらく俺たちを見ていた。


 それから、銀貨を掴み取った。


「後悔するぞ。重い銀など、戦が続けば消える」


「軽い銀だけ残るなら、それは勝ちじゃなくて病気だ」


 俺が言うと、男は舌打ちした。


 背を向ける。


 その拍子に、粉袋の端へ靴が引っかかった。


 どさ、と袋が倒れた。


 白い粉が、男の外套と髪にかぶさる。


 沈黙。


 それから、粉挽き場のどこかで子どもが吹き出した。


 次に老婆が笑った。


 炭焼きの男も笑った。


 マルタが腕を組んだまま言う。


「ほらね。軽い銀は粉にも嫌われる」


 男は真っ白な顔で睨んだ。


 もともと顔が白くなったのではない。


 粉で白い。


 迫力は半分以下になっていた。


「レヴォナは、遠いと思うなよ」


 その言葉だけを残して、男は出ていった。


 水車の音が戻る。


 村人たちは、まだ少し笑っていた。


 マルタが、粉まみれの手で机を叩いた。


「次」


 仕事の声だった。


 止まっている暇はない。


 粉挽き場は、国家の陰謀より先に粉を挽く。


 それが、村の強さだった。


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