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第十七部 粉挽き場の秤と、軽い銀貨の話 ① 粉挽き場の帳合い

 金は、正直だと思っていた。


 少なくとも、人間よりは正直だと思っていた。


 銀貨は銀貨。


 銅貨は銅貨。


 重いものは重い。


 軽いものは軽い。


 俺が昔、王子だった頃、金庫の中の貨幣は、だいたいそういう顔をして並んでいた。


 だが、街道に出ると違う。


 銀貨は、嘘をつく。


 王国銀貨の顔をした軽い銀。


 グランデル帝国小銀貨の顔をした削れ銀。


 ブリエン銀貨より少し薄い、どこかで混ぜ物をされた銀。


 レヴォナ自由都市の名で流れてくる、軽くてよく喋る銀。


 人間だけではない。


 金まで、便宜上の顔を持つようになる。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ロド・カナリ。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。


 そしてこの日、俺はまた新しい職業を得た。


 粉挽き場の臨時受付。


 より正確に言えば、銀貨を疑う家令の横で、村人に笑われる見世物である。


 路銀というものは、思ったより尊厳を削ってできている。



 ◇



 リンデンでの二日目の朝、俺はニーナに肩を押された。


 診療所の裏庭は、朝露で少し湿っていた。


 冬の終わりの土は、まだ固い。


 だが、薬草棚の根元には、細い緑がいくつか顔を出していた。


 乾いた葉と、青い茎と、濡れた包帯の匂いが混じる。


 洗濯紐には白い包帯が並び、風に揺れるたびに、小さく息をしているように見えた。


 ニーナは、俺の左肩の包帯をほどきながら、眉間に皺を寄せていた。


「痛い?」


「少し」


「少しじゃなくて」


「……中より少し下」


「昨日よりは下がってる」


「褒められたか」


「傷がね。あんたはまだ」


「俺も少しは良くなってないか」


「黙って座っていられる時間は伸びた」


「赤子の成長みたいな褒め方だな」


「赤子はもう少し素直」


 リューリックが、脇で深く頷いた。


「同感でございます」


「お前はどこにでも同意するな」


「医療的事実です」


「お前は医療関係者じゃないだろ」


「セラ殿、ニーナ殿、ヴェロニカ殿、エルゼ殿、ヘルマ殿より、現場教育を受けております」


「俺のせいで、お前の職歴が謎になっていく」


「殿下の負傷歴に伴う副次的技能でございます」


「嬉しくないな」


 ニーナは笑いそうになって、すぐ真面目な顔に戻った。


 俺の肩の周りを指で確かめる。


 前より触り方が遠慮ない。


 いや、初めから遠慮はなかった。


 だが、今日は遠慮がないだけではない。


 彼女は、俺の体のどこを押せば痛いかを覚えている。


 患者としてはありがたい。


 男としてはだいぶ落ち着かない。


「ここは?」


「痛い」


「じゃあ、ここは?」


「それは痛くない」


「よし。熱は引いてる。腫れも昨日よりまし。剣は駄目。荷運びも駄目。走るのも駄目」


「俺は何ならできる」


「喋る」


「またそれか」


「得意でしょ」


「得意だが、仕事にされると腹が立つ」


「じゃあ、黙って寝てる?」


「喋ります」


「よろしい」


 完全に負けた。


 ニーナは包帯を巻き直した。


 結び目は小さく、固い。


 痛い場所を避けているのに、逃げ道はない結び方だった。


 その途中で、彼女の視線が俺の革袋に落ちた。


 袋の口が少し開いていた。


 中には、包帯、薬草袋、紙片、馬蹄鉄、白い布、青い活字、それに空の硝子管が見えている。


 何の脈絡もないものばかりだ。


 普通の傭兵の荷物ではない。


 旅の薬棚。


 あるいは、俺が各地で叱られ、縫われ、拾われ、見送られてきた証拠品の山である。


 ニーナは、包帯を持ったまま目を細めた。


「……また増えてる」


「何が」


「あんたの、その変な袋」


「変な袋じゃない。革袋だ」


「革袋は知ってる。中身が変なの」


 ニーナは、薬草袋を指でつついた。


「これ、うちのじゃない薬草の匂いがする」


「それは……マレーナのだな」


「マレーナ」


 ニーナの声が、少しだけ平らになった。


 リューリックが余計なほど丁寧に補足する。


「薬師の女性でございます」


「聞いてない」


「失礼しました」


 ニーナは今度、止血粉の小袋を見た。


「これは?」


「ヴェロニカの止血粉」


「ヴェロニカ」


「外科医の女性でございます」


「リューリックさん、聞いてないって言ったよね」


「失礼しました」


 ニーナは、馬蹄鉄と白い布を見た。


「じゃあ、これは?」


「ハンナの馬蹄鉄と、リータの白い布だ」


「ハンナ。リータ」


 ニーナは、包帯の端を少しだけ強く引いた。


「痛い」


「生きてる」


「今、少し私情が入らなかったか」


「医療的な締め具合」


「嘘だろ」


「嘘じゃない。……半分くらい」


 彼女は目を逸らした。


 耳の先が、ほんの少し赤い。


「別に、いいけど」


「何が」


「あんたがどこで誰に縫われて、誰に薬をもらって、誰に怒られてても、別にいいけど」


「全然よくなさそうだな」


「いいって言ってるでしょ」


「包帯がさっきよりきつい」


「気のせい」


「ニーナ」


「何」


「嫉妬してるのか」


 薬箱の角が、俺の脇腹に入った。


「痛い!」


「診察中に変なこと言う患者への処置」


「処置じゃなくて攻撃だろ!」


 ニーナは顔を赤くしたまま、結び目を直した。


 今度は、少しだけ緩めてくれた。


「……でも」


「でも?」


「うちの硝子管も、ちゃんと入れといて」


 俺は革袋の口を見た。


 空の硝子管が、他の品々の間で小さく鳴った。


「入ってる」


「なくしたら怒る」


「管理指示だな」


「そう。管理指示」


 そう言いながら、ニーナは少しだけ笑った。


 その笑顔は、怒っているのか、照れているのか、たぶん本人にも分かっていなかった。


 裏庭の戸口から、白髪の居候老人が顔を出した。


「いちゃつきながら包帯を巻くと、結び目が曲がるぞ」


「いちゃついてない!」


 ニーナが即答した。


 俺も否定しようとした。


 出遅れた。


 少し悔しかった。


 リューリックは、たいへん静かに目を伏せた。


「殿下、診療所内外での再発症はお控えください」


「お前も乗るな」


 居候老人は鼻を鳴らして、奥へ戻っていった。


 診療所の中では、朝の患者の咳が聞こえている。


 小さな診療所は、誰かが照れていても、誰かの熱が下がらなくても、同じように回らなければならない。


 その小さな忙しさが、少しだけありがたかった。



 ◇



「今日、粉挽き場の帳合いを手伝って」


 ニーナは包帯の端をとん、と叩いて言った。


「粉挽き場?」


「うん。昨日の市で銀貨の揉め事があったでしょ。あれ、粉挽き場でも起きてる。村の粉挽きは順番制で、粉代を銀や銅で払うんだけど、軽い銀貨が混ざって揉めてるの」


「俺に何をしろと」


「リューリックさんには、銀貨を見てもらう。あんたは、文句を言う人をなだめて」


「俺が?」


「昨日、薬の前で偉そうにするなって言ってたでしょ」


「あれは勢いだ」


「勢いも人手」


「お前、俺の扱いが雑になってないか」


「最初からわりと雑だよ」


「そうだったな」


 リューリックが、銭袋を確認しながら言った。


「殿下、現状、路銀確保のためには地域労働に従事する必要がございます。粉挽き場の帳合いは、身体的負担が少なく、情報収集にも適しています」


「情報収集」


「粉は村の腹です。腹の支払いが乱れる時、村の不安が見えます」


 リューリックのこういう言い方は、時々ずるい。


 ただの金稼ぎを、急に国の話にしてくる。


 俺は王子だった頃、粉挽き場の順番札など気にしたことがなかった。


 国の腹と言われても、当時の俺が見ていたのは軍の兵站表や税の帳簿であって、村の粉袋ではなかった。


 だが、今は違う。


 村人が粉を挽けなければ、パンが減る。


 パンが減れば、子どもが泣く。


 子どもが泣けば、診療所に熱が増える。


 ニーナの薬が減る。


 貨幣の嘘は、そうやって体温まで下げる。


「分かった」


 俺は言った。


「粉挽き場の見世物になる」


「見世物とは言ってない」


 ニーナが言う。


「悪い見本よりは昇格じゃないか」


「自分で落ちていかないで」


「落ちるのは得意だ」


「知ってる」


「知ってるな」


「知ってるよ」


 そこでニーナは、ほんの少しだけ柔らかい顔をした。


 あの橋で痛み止めを折った時から、彼女は俺が落ちる場所を少しだけ知っている。


 そして俺は、彼女が薬を使う時の怖さを少しだけ知っている。


 知り合ってしまったものは、なかなか元に戻らない。


「レオン」


「何だ」


「粉挽き場で無理したら、明日は診療所の寝台に縛るから」


「縛るのか」


「必要なら」


「リューリック、止めろ」


「生命維持の観点から、必要な場合は協力いたします」


「お前は本当にどっちの味方だ」


「殿下が生きている側でございます」


 重いことを、平然と言う。


 俺は笑おうとして、少しだけ失敗した。


 ニーナがそれに気づいた。


 気づいたが、何も言わなかった。


 彼女は、黙って薬箱を閉じた。


 その沈黙は、前より少しだけ優しかった。


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