表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

95/95

第十六部 町医者の娘ニーナと、空っぽの革袋の話 Another Side:セラ

 リヴェン野戦第三病院の朝は、相変わらず早かった。


 夜明け前に水を替える。


 包帯を数える。


 熱のある兵を起こす。


 起きない兵は、軍医を呼ぶ。


 起きた兵には、眠れたかと聞く。


 たいてい、眠れていない。


 それでも聞く。


 聞かないと、眠れなかったことまで消えてしまうからだ。


 セラは記録板を抱え、病室を回った。


 リヴェンは遠い。


 トルガウからも、リンデンからも遠い。


 同じ大陸の上にありながら、別の戦争をしているような距離だった。


 それでも、噂は時々、長い足を持ってやって来る。


 昼前、補給隊の若い荷役が、包帯箱を下ろしながら言った。


「そういえば、南の方で、妙な傭兵の話を聞きましたよ」


 セラは包帯の数を確認しながら答えた。


「妙な傭兵は、だいたいどこにでもいます」


「死にかけて病院に運ばれて、退院したあとに薬屋の客寄せをしてたとか」


 セラの指が、包帯の上で止まった。


 ほんの一瞬。


 誰も気づかないくらいの一瞬。


「……その傭兵は、生きているんですか」


「たぶん。口だけは元気だったそうです」


「そうですか」


 セラは包帯を数え直した。


 一、二、三。


 いつもどおり。


 数は合っている。


 心は少しだけ合っていない。


 百三人目。


 そう思ったのに、死ななかった男。


 名前は、レオン。


 いえ、今は別の名を使っているかもしれない。


 あの人は、そういう顔をしていた。


 何かを背負っているのに、軽口で隠す顔。


 痛いくせに、惚れたと言い出しそうな顔。


 叱ると少しだけ嬉しそうにする、たいへん面倒な顔。


「主任?」


 若い看護助手が声をかけた。


「包帯、合いませんか」


「合っています」


 セラは記録板に数を書いた。


「ただ、少し思い出しただけです」


「何をですか」


「悪い見本を」


 看護助手は首をかしげた。


 セラは、それ以上説明しなかった。


 午後、重傷者が運ばれた。


 腹部。


 脚。


 肩。


 セラは走った。


 いつものように。


 私情は、処置台の前では畳む。


 畳んで、胸の奥へ置く。


 置いたものは、消えない。


 ただ、今は使わない。


 夕方、短い休憩の時間に、セラは古い記録板の裏を見た。


 そこに何かを書いたわけではない。


 ただ、指先で一度だけなぞった。


 百三人目。


 生存の噂あり。


 そう書きたくなった。


 書かなかった。


 記録ではないからだ。


 でも、覚えた。


 セラは窓の外を見た。


 リヴェンの空は灰色だった。


 遠くの空の下で、あの男がまた誰かに叱られているなら。


 それは、たぶん悪いことではない。


「次に来る時は」


 セラは、誰にも聞こえない声で言った。


「死にかける前に来てください」


 それからすぐに、病室から呼ぶ声がした。


 セラは記録板を持ち直し、歩き出した。


 百三人目のことは、胸の奥へ戻す。


 今は、目の前の百四人目を死なせない時間だった。



 ──Another Side 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ