第十六部 町医者の娘ニーナと、空っぽの革袋の話 Another Side:セラ
リヴェン野戦第三病院の朝は、相変わらず早かった。
夜明け前に水を替える。
包帯を数える。
熱のある兵を起こす。
起きない兵は、軍医を呼ぶ。
起きた兵には、眠れたかと聞く。
たいてい、眠れていない。
それでも聞く。
聞かないと、眠れなかったことまで消えてしまうからだ。
セラは記録板を抱え、病室を回った。
リヴェンは遠い。
トルガウからも、リンデンからも遠い。
同じ大陸の上にありながら、別の戦争をしているような距離だった。
それでも、噂は時々、長い足を持ってやって来る。
昼前、補給隊の若い荷役が、包帯箱を下ろしながら言った。
「そういえば、南の方で、妙な傭兵の話を聞きましたよ」
セラは包帯の数を確認しながら答えた。
「妙な傭兵は、だいたいどこにでもいます」
「死にかけて病院に運ばれて、退院したあとに薬屋の客寄せをしてたとか」
セラの指が、包帯の上で止まった。
ほんの一瞬。
誰も気づかないくらいの一瞬。
「……その傭兵は、生きているんですか」
「たぶん。口だけは元気だったそうです」
「そうですか」
セラは包帯を数え直した。
一、二、三。
いつもどおり。
数は合っている。
心は少しだけ合っていない。
百三人目。
そう思ったのに、死ななかった男。
名前は、レオン。
いえ、今は別の名を使っているかもしれない。
あの人は、そういう顔をしていた。
何かを背負っているのに、軽口で隠す顔。
痛いくせに、惚れたと言い出しそうな顔。
叱ると少しだけ嬉しそうにする、たいへん面倒な顔。
「主任?」
若い看護助手が声をかけた。
「包帯、合いませんか」
「合っています」
セラは記録板に数を書いた。
「ただ、少し思い出しただけです」
「何をですか」
「悪い見本を」
看護助手は首をかしげた。
セラは、それ以上説明しなかった。
午後、重傷者が運ばれた。
腹部。
脚。
肩。
セラは走った。
いつものように。
私情は、処置台の前では畳む。
畳んで、胸の奥へ置く。
置いたものは、消えない。
ただ、今は使わない。
夕方、短い休憩の時間に、セラは古い記録板の裏を見た。
そこに何かを書いたわけではない。
ただ、指先で一度だけなぞった。
百三人目。
生存の噂あり。
そう書きたくなった。
書かなかった。
記録ではないからだ。
でも、覚えた。
セラは窓の外を見た。
リヴェンの空は灰色だった。
遠くの空の下で、あの男がまた誰かに叱られているなら。
それは、たぶん悪いことではない。
「次に来る時は」
セラは、誰にも聞こえない声で言った。
「死にかける前に来てください」
それからすぐに、病室から呼ぶ声がした。
セラは記録板を持ち直し、歩き出した。
百三人目のことは、胸の奥へ戻す。
今は、目の前の百四人目を死なせない時間だった。
──Another Side 了




