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第十六部 町医者の娘ニーナと、空っぽの革袋の話 ④ 夜の帳簿

 夜、離れの小屋で、リューリックは帳簿をつけた。


 診療所の売上。


 俺たちへの手当。


 離れの使用料。


 食費。


 残りの路銀。


 俺は寝台の上で、それを眺めていた。


「どうだ」


「短距離移動一回分は確保できました。二日滞在しても、飢えずに済みます」


「勝利か」


「小勝利です」


「俺の尊厳を使った割に、小さいな」


「殿下の尊厳は、現金化効率が高くありません」


「ひどい評価だ」


「ただし、集客効果はございます」


「なお悪い」


 リューリックは帳簿を閉じた。


「しばらくは、ここで小仕事を拾うのが現実的です。診療所の市、荷の整理、硬貨の確認、粉挽き場の帳簿、木炭荷の書付。殿下は、口を使う仕事であれば可能です」


「悪い見本業か」


「たいへん需要がございます」


「嬉しくない」


 窓の外で、菩提樹が揺れていた。


 リンデンの夜は静かだ。


 白湯鹿亭より湯気が少ない。


 トルガウより血の匂いが薄い。


 だが、ここにも戦争の影はある。


 軽い銀貨。


 高くなった薬草。


 疲れたニーナ。


 父のいない診療所。


 居候老人の沈黙。


 世界は、ここにも細い糸を伸ばしている。


「この先、どうする」


 俺は訊いた。


「短期的には療養と路銀確保です」


「中期的には」


「王国中央へ向かうか、ブリエン公国方面へ抜けるか。テオ殿の線を使うなら、海路やオーランド方面の情報にも接続できます」


「シーロか」


「可能性はございます。ただし、今すぐ海へ向かう体ではありません」


「だろうな」


「また、貨幣の混乱がリンデンまで来ております。レヴォナ自由都市の軽銀、ブリエン銀、王国銀貨、グランデル小銀。これは、今後の移動と交渉に影響します」


「金の話は嫌だな」


「避けると、宿代で死にます」


「戦場より地味に怖い」


「はい」


 俺は革袋を触った。


 空の硝子管が、中で小さく当たった。


 からん、という音。


 中身はない。


 でも、次に会う理由がある。


 ニーナの管理指示。


 エルゼの退院証。


 ヘルマの鹿角。


 テオの後払い。


 みんな、勝手に未来へ紐をつけていく。


 俺は、その紐で少しずつ身動きが取れなくなっている気がする。


 不思議と、悪くない。


 少し怖い。


 かなり重い。


 でも、悪くない。



 ◇



 深夜、俺は目を覚ました。


 肩が痛んだ。


 中くらい。


 いや、中より少し上。


 俺はしばらく天井を見た。


 痛いと言うか迷う。


 リューリックは簡易寝床で眠っている。


 最近、ようやく少し眠るようになった。


 起こすのは悪い。


 でも、痛い。


 エルゼなら「言ってください」と言う。


 ヘルマなら「言え」と言う。


 ニーナなら「言わないと悪化する」と言う。


 女たちの声が、夜の天井に次々と浮かぶ。


 俺の人生は、叱る女の幻聴でできているのか。


 かなり嫌だ。


 かなりありがたい。


「……痛い」


 小さく言った。


 リューリックが、すぐに起きた。


 早い。


 本当に寝ていたのか、この男。


「程度は」


「中より少し上」


「熱は」


「たぶんない」


「水を」


 リューリックは起き上がり、水を差し出した。


 俺は受け取った。


「悪いな」


「業務でございます」


「業務か」


「はい」


「便利だな」


「はい」


 水を飲む。


 肩は痛い。


 だが、痛いと言った。


 それだけで、少しだけ痛みの形がはっきりした。


 リューリックは、俺の額に手を当てた。


 熱を見る手。


 昔は、こんなことをされた記憶があまりない。


 あったのかもしれない。


 忘れているだけかもしれない。


「熱はありません」


「そうか」


「明日、ニーナ殿に診せましょう」


「また怒られるな」


「はい」


「楽しそうに言うな」


「安心しているだけでございます」


「怒られるのに?」


「怒られる場所に戻れたので」


 俺は、少し黙った。


 痛い。


 でも、胸の奥の方が別に痛い。


「リューリック」


「はい」


「俺たちは、どこへ行くんだろうな」


「ひとまず、明日の診療所でございます」


「小さいな」


「大きな行き先は、小さな行き先を積んだ先にございます」


「エルゼみたいなことを言う」


「良い言葉は採用します」


「そうか」


 俺は目を閉じた。


 セラは今、どこで誰を叱っているだろう。


 ヴェロニカは、どこの腹を開いているだろう。


 エルゼは、誰の痛みを書いているだろう。


 ヘルマは、湯船で寝た誰かを叩いているだろうか。


 ニーナは、明日、俺の肩を押して怒るだろう。


 それだけは、かなり確実だ。


 確実な明日が一つある。


 今夜は、それで十分だった。



 ──第十六話 了


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