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第十六部 町医者の娘ニーナと、空っぽの革袋の話 ① リンデン診療所

 革袋というものは、実に不公平だ。


 重い時ほど、金が入っているとは限らない。


 むしろ最近の俺の革袋は、金よりも、布と紙と薬草と、使い終わった意味ばかりで重くなっていた。


 セラの包帯。


 マレーナの薬草袋。


 ヴェロニカの止血粉。


 ハンナの馬蹄鉄。


 リータの白い布。


 ヴィクトルの青い活字。


 エルゼの退院証。


 テオの書付。


 ヘルマの宿帳に残った、鹿角未了の名前。


 そして、ニーナの痛み止めが消えたあとの、小さな空白。


 重い。


 かなり重い。


 だが、振っても銀貨の音はほとんどしない。


 思い出は腹を満たさない。


 約束では宿代を払えない。


 女たちの言葉を懐に詰めても、馬は借りられない。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ロド・カナリ。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。


 そしてこの日、俺は新しい職業を得た。


 臨時の客寄せ。


 より正確に言えば、町医者の娘に展示された、生きた悪い見本である。



 ◇



 白湯鹿亭を出てから、リンデン村までの道は、思ったより長く感じた。


 距離の問題ではない。


 木炭荷車の揺れは、薬草商隊の荷台より硬かった。


 車輪が石を踏むたびに、左肩が小さく悲鳴を上げる。


 脇腹が、少し遅れて文句を言う。


 右膝が、俺もいるぞ、と地味に存在を主張する。


 体のあちこちが、勝手に会議を開く。


 議長は左肩。


 副議長は脇腹。


 議事進行はだいたい最悪だった。


「痛い」


 俺は荷車の上で言った。


「はい」


 リューリックが即答した。


「お前、本当に返事が早くなったな」


「エルゼ殿とヘルマ殿の申し送りを統合運用しております」


「俺の痛み対応が多国籍化している」


「たいへん実用的でございます」


「そのうちニーナの怒鳴り声も統合されそうだな」


「すでに一部、殿下の行動抑制に有効でございます」


「何だそれは」


「痛いなら言え。無理するな。薬を雑に使うな。剣を振るな。女を見すぎるな」


「最後は医療指示じゃないだろ」


「殿下の場合、負傷予防指示です」


 俺は言い返そうとして、やめた。


 言い返すと肩が痛む。


 そして、たぶん負ける。


 最近、俺は言い返す前に負けを察することが増えた。


 成長なのか、衰えなのか、よく分からない。


 荷車は、乾いた林道をゆっくり進んだ。


 道の両側には、薄い冬草が広がっている。


 春に通ったリンデンへの道とは、匂いが違った。


 あの時は、雪解けの泥がまだ黒く残り、麦の若い緑が水を吸っていた。


 今は、土が少し硬い。


 風も冷たい。


 畑の色が、少しだけ薄い。


 同じ村へ戻るのに、季節だけが先に進んでいる。


 そのことが、妙に落ち着かなかった。


「リンデンか」


「はい」


「前に来た時は、俺の肩もまだ今ほど人生経験豊かじゃなかった」


「傷の履歴という意味では、かなり豊かになられました」


「嬉しくない」


「私も、できれば貧しくあっていただきたい分野です」


 リューリックは、俺の革袋を見た。


 中身の音が少ない。


 金の音はさらに少ない。


「路銀も、豊かではございません」


「それを言うな」


「現実です」


「現実を言うな」


「言わないと、夕食が消えます」


「重い」


「空腹はもっと重いです」


 正論だった。


 国を取り戻すとか、妹を探すとか、帝国の闇を暴くとか、そういう大きな言葉は重い。


 だが、宿代が払えない、という小さな現実は、それより先に喉を締める。


 元王子だろうが、現傭兵だろうが、空腹になる。


 革袋が空なら、寝床は遠い。


 世界はひどく正直だ。


 木炭荷車の老人が、前から短く言った。


「見えたぞ」


 俺は身を起こした。


 左肩が痛む。


 だが、見た。


 丘の向こうに、リンデン村があった。


 村の入口には、あの菩提樹が立っている。


 葉はだいぶ落ちていた。


 枝の間から、灰色の空が見える。


 井戸の横には、小さな市の準備をしている村人たちがいた。


 荷物を抱えた難民の姿は、春よりは少ない。


 だが、消えたわけではない。


 人は、戦場から逃げたあとも、簡単には消えない。


 消えないまま、村の端に座り、少しずつ村の風景の一部になっていく。


 それは救いなのか、放置なのか。


 俺にはまだ分からなかった。



 ◇



 リンデン診療所は、変わっていた。


 いや、建物はほとんど同じだった。


 白い壁。


 青い扉。


 窓辺に吊るされた乾燥薬草。


 子供の手で書かれたような、太い文字の看板。


 金、なくても診ます。


 そこまでは同じだ。


 だが、前に来た時より、薬草棚が一つ増えていた。


 裏庭には、割れにくい硝子管を作るためらしい細い革紐が干されている。


 洗濯紐には包帯。


 井戸端には水桶。


 入口の横には、古い木箱をひっくり返して作った小さな掲示板があった。


 そこには、乱暴な字でこう書いてあった。


 痛み止めは、万能薬じゃない。


 使う前に、聞け。


 聞けない時は、あとで怒られろ。


「……ニーナの字だな」


「はい。たいへんニーナ殿らしい掲示でございます」


「最後が特にひどい」


「しかし、実務的です」


 扉を開ける前に、中から怒鳴り声が聞こえた。


「その包帯、巻きすぎ! 血を止めたいのか、腕を殺したいのか、どっち!」


 変わっていなかった。


 俺は、少し安心した。


 扉を開ける。


 薬草と消毒液と汗の匂い。


 狭い診療室。


 寝台が三つ。


 右の寝台には、炭焼きらしい男が座り、左の寝台では子どもが咳をしている。


 奥の作業台では、白髪の居候老人が薬を量っていた。


 何もしていないように見えるのに、薬包の並びは妙に正確だ。


 そして、中央の寝台の前に、ニーナがいた。


 袖をまくり、髪を雑に結び、患者の腕に包帯を巻いている。


 彼女は、俺たちが入った瞬間に顔を上げた。


 目が合った。


 その表情が、一瞬で変わる。


 驚き。


 安堵。


 それから、怒り。


 最後に、町医者の娘としての厳しい目。


「……レオン」


「よう」


「ちょっと待って」


 再会の言葉は、それだけだった。


 ニーナはすぐに患者へ視線を戻した。


「まず、こっち。動かないで。だから巻きすぎだって言ったでしょ。指先が紫になってる。腕は保存食じゃないの。縛れば長持ちするわけじゃない」


 患者が情けない顔をした。


「いや、血が出てたから」


「血を止めるのと血を全部止めるのは違うの!」


 ニーナは手早く包帯を解き、圧を変え、結び直した。


 その手つきは速い。


 雑ではない。


 速くて、正確で、怒っている。


 この診療所の中心は、やはりニーナの足音と怒鳴り声だった。


 白髪の老人が、作業台からこちらを見た。


 ふん、と鼻を鳴らす。


「戻ったか、都合のいい傷の男」


「再会の第一声がそれか」


「お前には、それで足りる」


「足りるな」


 ニーナが患者の腕を押さえたまま、こちらを見ずに言った。


「じいさん、レオンの肩見て。たぶん左。あと脇腹と膝も見る。本人が『大丈夫』って言ったら、そこは大丈夫じゃないから」


「おい」


「事実でしょ」


「まだ何も言ってない」


「言う顔してる」


 老人が、薬匙を置いて立ち上がった。


 動きは遅い。


 だが、無駄がない。


「こっちへ座れ、悪い見本」


「この診療所、俺の扱いがひどすぎる」


「ひどい患者には、ひどい分類が必要だ」


 ニーナが中央の寝台から声だけで割って入る。


「分類はあと。先に診て。じいさん、包帯ほどく前に退院証も読んで。前の傷に重なってるかもしれない」


「分かってる」


「分かってるなら返事して」


「はいはい」


「一回でいい」


 狭い診療所の中で、会話が飛ぶ。


 ニーナは患者を診ながら俺を見る。


 老人は俺を診ながらニーナの指示を聞く。


 リューリックは入口の横に立ち、邪魔にならない位置へ半歩下がった。


 そのまま、子どもの咳が強くなった瞬間、近くの水差しを取って看護助手に渡す。


 誰も命じていない。


 それでも、診療所の動線に自然に入る。


 エルゼがいたら、たぶん記録板の余白に書く。


 サンドル、邪魔にならない。


 それはこの場所では、かなり大事な能力だった。


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