第十五部 湯場宿ヘルマと、白湯鹿の湯の話 Another Side:ヘルマ
荷車が見えなくなるまで、ヘルマは戸口に立っていた。
見送りは長くしない。
長くすれば、客が戻りにくくなる。
そう思っている。
それでも、今日は少し長く見た。
ロド・カナリ。
便宜上の名だろう。
サンドル。
同行管理者というには、背負っているものが古すぎる男だった。
あの二人は、普通の客ではない。
そんなことは、戸口に立った瞬間に分かった。
宿の女将は、客の嘘を全部暴く必要はない。
むしろ、暴きすぎる女将の宿は長続きしない。
大事なのは、嘘の形を見ることだ。
逃げるための嘘か。
騙すための嘘か。
守るための嘘か。
あの二人の嘘は、守るための嘘に近かった。
ただし、何を守っているのかまでは分からない。
分からない方がいいこともある。
ヘルマは宿へ戻り、帳場の奥から宿帳を出した。
昨日の行を開く。
ロド・カナリ。
怪我。左肩、脇腹。
湯、半分。
口は元気。
湯で寝かける。
鹿角未了。
その横に、サンドルの名もある。
同行管理者。
荷と客の扱い良し。
女将の茶を丁寧に受け取る。
少し考えてから、ヘルマは小さく一行足した。
退院証を大事に扱う。
それから、さらに少し考えた。
病棟記録係の名を聞いた時、あの男は一拍遅れた。
ヘルマは、そういう間を見逃さない。
だが、それは宿帳に書かなかった。
書くと、余計なものになる。
人には、書かれない方が温かいこともある。
「女将」
厨房から若い下働きが顔を出した。
「湯の石桶、またぬるくなってます」
「薪を足しな。昼には巡礼が来る」
「はい」
「あと、男湯の木札を増やすよ」
「何て書くんですか」
ヘルマは少し考えた。
湯船で寝るな。
これはもうある。
肩まで浸かるな。
これもある。
女将に嘘をつくな。
これもある。
では、何を増やすか。
ヘルマは筆を取った。
木札に太く書く。
痛いなら言え。
下働きが、それを読んで笑った。
「新しいですね」
「必要だよ」
「誰か言わなかったんですか」
「言えるようになった客がいた」
「なら、いいですね」
「ああ」
ヘルマは木札を乾かした。
午後には男湯に掛けるつもりだった。
客は来る。
傷を隠す兵士。
財布を隠す商人。
泣いたことを隠す巡礼。
帰る家がないことを隠す者。
湯は、そういうものを少しだけ浮かせる。
全部は流せない。
でも、少しは温められる。
白湯鹿亭は、そういう宿だ。
ヘルマは宿帳を閉じた。
ロド・カナリの名前の横には、まだ鹿角はない。
戻ってきたら描く。
戻ってこなければ、空いたままだ。
宿帳には、そういう空白がいくつもある。
空白は慣れない。
何年女将をしても、慣れない。
それでも、空白があるから、戻ってきた時に鹿角を描ける。
ヘルマは帳面を棚に戻し、厨房へ向かった。
湯気が廊下を流れている。
次の客が来る。
痛いなら言え。
今日から、この宿の男湯には、そう書いてある。
──Another Side 了




