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第十五部 湯場宿ヘルマと、白湯鹿の湯の話 ④ 古い帳面

 二日目の夜、ヘルマが古い帳面を見せてくれた。


 宿帳だった。


 客の名、人数、傷の有無、湯の使用、支払い、行き先。


 意外と細かい。


「記録係みたいだな」


「宿も記録がいる。誰が死にかけて、誰が金を払って、誰が湯船で寝たか、覚えておかないと同じ馬鹿を二度やる」


「最後は俺か」


「候補だね」


 ヘルマは帳面をめくった。


 そこには、いろいろな名があった。


 兵士。


 商人。


 逃げた職人。


 巡礼。


 助産婦。


 名前の横に、小さな印があるものもあった。


 鹿の角。


「これは?」


「また戻ってきた客」


「常連印か」


「生存確認印だよ」


 ヘルマは軽く言った。


 だが、軽いだけではなかった。


「戦場近くの宿ではね、戻ってくるってのは、けっこう大したことなんだ」


 俺は帳面を見た。


 鹿の角の印がついた名前。


 一度しか出てこない名前。


 途中で線が引かれた名前。


 空欄のままの行。


 エルゼの記録とは違う。


 だが、これも人を残す紙だった。


「俺も書くのか」


「もちろん」


「名前は」


「ロド・カナリでいいよ。便宜上だろ」


 ヘルマは、何でもないように言った。


 便宜上。


 その言葉が、ここでは少し優しかった。


 本名を問わないということ。


 でも、泊まったことは残すということ。


 隠しているものを暴かない。


 ただ、今ここにいたことだけを書く。


 宿帳には、そういう力があるのかもしれない。


 俺は、右手でペンを取った。


 字は汚い。


 左肩が使えないから、なおさらだ。


 ロド・カナリ。


 ゆっくり書いた。


 ヘルマが覗き込む。


「読めるね」


「失礼だな」


「読めない客もいる」


「リューリックには解読扱いされる」


「そっちの同行管理者は厳しそうだからね」


「厳しいぞ」


 リューリックは横で涼しい顔をしていた。


「殿下の筆跡は、長年の業務範囲です」


「解読って言ったよな」


「分類上は」


「分類するな」


 ヘルマは、俺の名前の横に小さな鹿の角を描こうとして、止めた。


「まだ戻ってきてないからね」


「戻ってきたら描くのか」


「ああ」


「じゃあ、また来る理由ができたな」


「死にかける前に来な」


「みんなそれを言う」


「みんな正しいんだよ」


 ヘルマは帳面を閉じた。


 鹿の角は、まだ描かれなかった。


 それでいい。


 戻ってきた時に描かれる印がある。


 それは、少しだけ未来を信じる形に似ていた。



 ◇



 出発の朝、白湯鹿亭の前には木炭を積んだ荷車が来ていた。


 御者は無口な老人だった。


 ヘルマの親戚らしい。


 親戚なのに、挨拶が短い。


 ヘルマが「南へ」と言い、老人が「ああ」と言う。


 それで済む。


 血縁というのは、時々便利だ。


 俺たちは荷車に乗ることになった。


 薬草商隊ほど揺れは少なくない。


 だが、歩くよりはましだ。


 リューリックは、木炭袋の配置を変え、俺の背中に当てる布を整えた。


 ヘルマはそれを見て、満足そうに頷いた。


「サンドル、あんたは宿でもやれるよ」


「過分なお言葉です」


「ただし、客を甘やかしすぎるね」


「主君限定でございます」


「それが一番面倒だよ」


「否定いたしかねます」


 俺は荷車の上から言った。


「俺を前にして面倒と言うな」


「面倒な客ほど、よく喋る」


「宿帳に書くなよ」


「もう書いた」


「何を」


「口は元気。湯で寝かける。鹿角未了」


「余計なことばかりだ!」


 ヘルマは笑った。


 俺も笑った。


 笑って、少しだけ脇腹を押さえた。


「痛いかい」


「少しな」


「よし」


「よしなのか」


「言えたからね」


 ヘルマは、茶を入れた小さな竹筒をリューリックに渡した。


「道中で飲ませな。冷めても飲める」


「ありがとうございます」


「退院証は濡らすんじゃないよ」


「承知しております」


「エルゼとかいう記録係に怒られるからかい」


 リューリックは、一拍だけ遅れて答えた。


「作成者への敬意でございます」


「はいはい」


 ヘルマは完全に分かっている顔で頷いた。


 俺は荷車の上でにやけそうになった。


 しかし、ここで笑うとリューリックの機嫌が悪くなる。


 いや、悪くなるというより、顔がより家令になる。


 それはそれで面白いが、出発前にやると疲れる。


 俺は少しだけ我慢した。


 偉い。


「ロド」


 ヘルマが言った。


「何だ」


「次に来た時は、鹿角を描いてやる」


「期待してる」


「だから、生きて来な」


「ああ」


「あと、湯船で寝るな」


「それはもう忘れてくれ」


「宿帳に書いた」


「消せ!」


 老人が「ああ」とだけ言って、荷車を出した。


 会話の途中で出発するな。


 だが、荷車は進んだ。


 白湯鹿亭が少しずつ遠ざかる。


 下手な鹿の看板。


 湯気。


 石灯籠。


 戸口に立つヘルマ。


 宿帳の、まだ鹿角のない俺の名前。


 それらが背後へ流れていく。


 俺は荷車の上で、左肩を庇いながら息を吐いた。


 痛い。


 でも、出発できる痛みだ。


 昨日より少し、場所の分かる痛みだ。


「リューリック」


「はい」


「リンデンまでは?」


「この荷車で、明日の夕方には手前の村。そこから半日ほどでございます」


「近いな」


「はい」


「遠かったな」


「はい」


 短い会話だった。


 だが、その中に、トルガウの病室と、薬草商隊と、灰柳の分岐と、白湯鹿亭の湯気が全部入っていた。


 俺たちは南へ進む。


 南方療養地という雑な言葉は、少しだけ形を持ち始めていた。


 それは、地図上の場所ではない。


 痛いと言える場所。


 飯を食える場所。


 湯に半分だけ入れる場所。


 宿帳に便宜上の名を書いても、追及されない場所。


 そういう場所を、俺たちはいくつか通っている。


 たぶん、それで少しずつ生き延びている。


 荷車は、木炭の匂いを残しながら、リンデン方面へ向かった。



 ──第十五話 了


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