第十五部 湯場宿ヘルマと、白湯鹿の湯の話 ③ 石灯籠まで
湯から出たあと、俺は部屋でぐったりしていた。
湯は体力を使う。
それも、かなり使う。
半身浴だけで、戦闘後みたいに疲れた。
額には、湯かき棒の制裁跡がうっすら残っている。
リューリックは、湿った髪を布で拭きながら言った。
「額部、軽度発赤」
「記録するな」
「観察でございます」
「観察もやめろ」
ヘルマが部屋へ入ってきた。
手には小さな壺。
「額、出しな」
「まだ叩くのか」
「薬だよ」
「必要ない」
「女将の棒でついた跡を、女将が治す。宿の責任だ」
「だったら叩くな」
「叩かなきゃ寝るだろ」
反論できない。
ヘルマは俺の額に冷たい軟膏を塗った。
手が少し荒れている。
湯を扱う手。
薪を割る手。
客を叱る手。
それでも、薬を塗る時は妙に丁寧だった。
「痛むかい」
「額は少し」
「肩は」
「まだ痛い」
「脇腹は」
「湯に入る前よりは、ましだ」
「なら良し」
ヘルマは壺の蓋を閉めた。
「明日も湯は半分。飯は二回。歩くのは宿の前の石灯籠まで。そこから先は駄目」
「俺の行動範囲が宿の犬みたいだ」
「宿の犬はもっと遠くまで行くよ」
「負けた」
「今は負けときな。治ったら勝手に遠くへ行くだろ」
その言い方が、少しだけ優しかった。
乱暴な言葉の奥に、見送る側の諦めがあった。
宿の女将は、旅人を引き留めない。
ただ、出るまでの間、飯を出し、湯を用意し、嘘を見抜き、馬鹿を叱る。
それが彼女の仕事なのだろう。
「ヘルマ」
「何だい」
「ここには、戦場から来る客が多いのか」
「多いね」
「死ぬ奴も?」
「湯場宿だからって、みんな温まって出ていくわけじゃない」
ヘルマは窓の外を見た。
湯気が薄く流れている。
「ここで熱が下がる奴もいる。ここで傷が開く奴もいる。ここで泣く奴もいる。ここで女将に嘘をついて、翌朝倒れる馬鹿もいる」
「最後は俺か」
「今のところ候補だよ」
「なら脱落したい」
「正直に痛いと言えば、候補から外してやる」
エルゼみたいなことを言う。
だが、ヘルマが言うと湯気と薪の匂いがする。
同じ言葉でも、人によって温度が違う。
「痛い」
俺は言った。
「肩も、脇腹も、足も、少し痛い」
ヘルマは頷いた。
「よし。今日は候補から外してやる」
「ありがたい」
「明日は分からない」
「厳しい」
「明日の痛みは、明日言いな」
ヘルマは部屋を出ていった。
俺は、しばらく黙っていた。
痛いと言う。
言うだけで、候補から外れる。
馬鹿の候補から。
死に急ぐ奴の候補から。
少しずつ、そういうものから外れていくのかもしれない。
そう思うと、少しだけ落ち着かなかった。
俺は、ずっと候補に入っていた。
死に損なう候補。
逃げる候補。
惚れる候補。
叱られる候補。
その中から一つ外れると、空いた場所に何が入るのか分からない。
「殿下」
リューリックが静かに言った。
「何だ」
「今日は、よく申告されました」
「褒め方が病棟寄りだ」
「はい」
「お前、俺が痛いと言うと安心するのか」
「はい」
即答だった。
俺は少しだけ、言葉に詰まった。
「なぜだ」
「痛いと言える時は、まだこちら側におられます」
「こちら側?」
「生きている側でございます」
重い。
不意に重いものを投げるな。
俺はそう言おうとして、やめた。
リューリックは、こちらを見ていなかった。
水差しの位置を直している。
だが、その手が少しだけ止まっていた。
俺は、そういう沈黙を最近少し読めるようになってきた。
「リューリック」
「はい」
「明日も痛かったら言う」
「承知しました」
「だから、お前も寝ろ」
「私は」
「寝ろ。見張り顔で立ってると、俺の方が落ち着かない」
リューリックは少しだけ黙った。
「……承知しました」
「今、珍しく素直だな」
「湯場宿の効能かと」
「湯は万能だな」
「はい」
二人とも、それ以上は言わなかった。
窓の外で湯気が流れる。
廊下の向こうで、ヘルマが誰かを叱る声がした。
たぶん、湯を飲んだ客だ。
白湯鹿亭の夜は、静かすぎない。
その静かすぎなさが、今の俺にはちょうどよかった。
◇
翌朝、俺は宿の前の石灯籠まで歩いた。
距離にして、十数歩。
七歩から、少し伸びた。
エルゼがいたら、記録しただろう。
リューリックは記録しなかった。
代わりに、黙って歩幅を合わせた。
ヘルマは戸口から見ていた。
腕を組み、口だけ厳しい顔をしている。
だが、目は少しだけ笑っていた。
「石灯籠まで行ったぞ」
「帰ってくるまでが歩行だよ」
「遠足みたいに言うな」
「遠足より危なっかしいからね」
帰り道、俺は少し息が上がった。
だが、倒れなかった。
石灯籠まで行って、戻った。
それだけ。
それだけなのに、妙に胸が軽い。
小さい今を増やす。
エルゼの言葉が、ここでも効いている。
白湯鹿亭は、南方療養地と呼ぶには小さすぎる。
だが、今の俺には十分だった。
飯がある。
湯がある。
女将が嘘を見抜く。
リューリックが少し眠る。
俺は十数歩歩く。
これだけで、昨日より少し世界が続く。
昼前、ヘルマが茶を出した。
湯場の白い根を干したものらしい。
味は薄い。
少し甘い。
「ヘルマ」
「何だい」
「この先、リンデンまではどれくらいだ」
「怪我人の足なら、まともに歩けば三日。今のお前なら、馬車を拾って二日半。無理して歩けば、五日かかって悪化する」
「最後だけ変じゃないか」
「無理する奴は遅いんだよ。倒れるから」
正論だった。
無理は早道ではない。
倒れる分だけ、遠回りになる。
それを俺は、何度もやってきた。
「馬車はあるか」
「明後日の朝、木炭を積んだ荷車が南へ行く。リンデンの手前までなら乗せられる」
「料金は」
「テオの書付があるから、少し安くしてやる。でもただじゃない」
「分かってる」
「分かってる顔じゃないね」
「何なら分かってる顔なんだ」
「痛い時に痛いと言う顔」
「そればっかりだな」
「それができれば、だいたい何とかなる」
ヘルマは、茶をすすった。
「何とかならないものも多いけどね」
その一言に、宿の外の道が少し広がった気がした。
何とかなる。
何とかならない。
その両方を知っている人間の声だった。
俺は、茶を飲んだ。
薄い甘さが、舌に残る。
この味も、たぶんいつか思い出す。
白湯鹿亭。
下手な鹿の看板。
ぬるい湯。
湯かき棒。
腰布事故。
石灯籠までの十数歩。
宿の記憶というものは、派手ではない。
でも、体に残る。
俺は、そういう記憶を少しずつ持ちすぎている。
革袋に入らないものが、増えていく。
悪くない。
重いけど。
悪くない。




