第十五部 湯場宿ヘルマと、白湯鹿の湯の話 ② 湯殿の事件
湯に入る前に、ヘルマは俺の退院証を読んだ。
読まなくていいと言ったが、宿の規則だと言われた。
湯場宿に泊まる怪我人は、傷の状態を書いた紙を見せる。
見せないなら、湯には入れない。
現実的で、合理的で、逃げ場がない。
俺は諦めた。
「左肩深創。脇腹浅創。長距離騎乗不可。痛み申告可能。無理をすると悪化。長期静養より、短距離移動を挟む療養が望ましい」
ヘルマは余白まで読んだ。
「この記録係、いい仕事するね」
「だろ」
俺が言うより先に、リューリックが頷いた。
「はい。たいへん優れた記録係です」
ヘルマが、ゆっくりリューリックを見た。
「ほう」
「何でしょう」
「いや、いい返事だったからね」
「事実でございます」
「そうかい」
ヘルマは笑った。
俺も笑った。
リューリックだけが真顔だった。
かなり面白い。
「で、この傷なら湯に浸かるのは半身だけだ。肩まで入るんじゃないよ」
「湯場なのに半分か」
「全身入りたければ、全身治してから来な」
「正論が乱暴だ」
「乱暴な方が覚えるだろ」
「俺は繊細に扱われたい」
「壊れ物なら丁寧に扱うよ。馬鹿なら叱る」
「俺はどっちだ」
「今のところ、壊れかけの馬鹿」
リューリックが深く頷いた。
「たいへん適切な分類です」
「お前は本当にどっちの味方だ」
「生命維持側でございます」
湯場へ向かう廊下は、石でできていた。
滑らないよう、細かな溝が刻まれている。
湯気が白く流れ、灯りがぼんやり揺れている。
奥に男女別の小さな湯殿がある。
俺は男湯へ。
リューリックが付き添う。
当然だ。
当然なのだが、湯にまで家令がついてくるというのは、元王子時代を思い出して妙に嫌だった。
「俺、一人で入れる」
「無理でございます」
「即答するな」
「湯場で転倒すると、エルゼ殿の退院証に申し訳が立ちません」
「そこか」
「そこも、でございます」
ヘルマが入口で釘を刺した。
「サンドル、目を離すんじゃないよ。こいつ、絶対に肩まで入ろうとする顔をしてる」
「承知しました」
「俺はそこまで馬鹿じゃない」
「湯を見た怪我人は、だいたい自分を過信する」
「偏見が多い宿だな」
「経験だよ」
俺は負けた。
湯場宿の女将は、軍監より別方向に強い。
◇
湯殿は小さかった。
石で囲まれた湯船が一つ。
湯は白く濁っていて、湯気が薄く立っている。
熱くはない。
ぬるい。
だが、傷を持った体には、それくらいがちょうどいいのだろう。
壁には、古い木札が掛かっていた。
肩まで浸かるな。
飲むな。
湯船で寝るな。
喧嘩するな。
女将に嘘をつくな。
最後だけ妙に具体的だった。
「ここの客、何をしたんだ」
「多くの方が、何かをなさったのでしょう」
リューリックが淡々と言った。
俺は衣服を脱ぐのに苦労した。
左腕が使えない。
脇腹を捻ると痛い。
服を脱ぐだけで、戦闘より情けない汗が出る。
リューリックが手伝おうとする。
「待て。できる」
「殿下」
「できるところまでやらせろ」
リューリックは手を止めた。
その止め方が、うまかった。
手を引っ込めるのではなく、必要ならすぐ届く位置に置く。
エルゼの病棟で覚えたのだろう。
支えすぎない。
見捨てない。
自分でできたと錯覚できるぎりぎりのところで、待つ。
腹立たしいほど、ありがたい。
俺は時間をかけて上着を脱いだ。
包帯が見える。
左肩から胸にかけて、白い布が巻かれている。
脇腹にも細い包帯。
自分の体なのに、誰かが書いた地図みたいだった。
縫い目。
青あざ。
古い傷。
新しい傷。
王子だった頃には見なかった体。
奴隷だった頃には、見るのも嫌だった体。
傭兵になってからは、商品みたいに使ってきた体。
湯気の中でそれを見ると、急に黙りたくなった。
「殿下」
「何だ」
「痛みますか」
「少しな」
「はい」
リューリックが、エルゼみたいに返した。
俺は苦笑した。
「似てきたな」
「良い方法は採用いたします」
「お前、素直に褒めるようになったな」
「職務上、有用な技法ですので」
「それだけか」
「……湯が冷めます」
「逃げた」
「半身浴に入ります」
「逃げたな」
リューリックは答えなかった。
珍しい。
それだけで、俺は少し勝った気分になった。
勝った気分のまま湯に足を入れた。
ぬるい。
だが、足先からじわりと熱が上がる。
膝。
腿。
腰。
脇腹に近づいたところで、体が固まった。
「痛い」
「はい」
「でも、入る」
「ゆっくり」
湯に腰を沈めた。
肩は出す。
ヘルマに言われた通りだ。
言われた通りにするのは悔しい。
だが、気持ちいい。
悔しい。
かなり悔しい。
湯が、体の下半分を包む。
血の巡りが少し戻る。
痛みが消えるわけではない。
ただ、角が少し丸くなる。
俺は息を吐いた。
長く、ゆっくり。
自分が思ったより息を止めていたことに、そこで気づいた。
「リューリック」
「はい」
「気持ちいいな」
「左様で」
「お前も入ればいい」
「見張りがあります」
「俺は湯の中で逃げない」
「湯の中で寝る可能性がございます」
「寝ない」
「先ほど木札に、湯船で寝るな、とございました」
「俺のためじゃない」
「未来の殿下のためかもしれません」
「未来の俺まで馬鹿扱いするな」
そこで、湯殿の外からヘルマの声が飛んだ。
「肩まで入ってないだろうね」
「入ってない!」
「寝てもないね」
「寝てない!」
「口が元気なら、まだ大丈夫だね」
「確認の仕方が雑だ!」
リューリックが真面目に頷いた。
「実用的です」
「お前は女将側につくな」
俺は湯の中で、少し笑った。
笑っても、さっきほど痛くなかった。
湯のせいか。
飯のせいか。
ヘルマの乱暴な優しさのせいか。
それとも、痛いと言っていいことを少し覚えたせいか。
分からない。
分からないが、今は分からなくてもよかった。
湯気が白く、天井へ上がっていく。
俺はそれを見ながら、少しだけ目を閉じた。
◇
事件は、その直後に起きた。
目を閉じたのが悪かった。
いや、湯がぬるすぎるのが悪い。
あるいは、俺の体が弱っているのが悪い。
責任の所在はいろいろある。
だが結果として、俺は湯の中でうとうとした。
そして、少しだけ体が横へ傾いた。
「殿下」
リューリックの声が飛ぶ。
俺は目を開ける。
体を戻そうとする。
足が滑る。
半身浴用の石段から尻がずれた。
左肩が湯に入りかける。
やばい。
俺は慌てて右手を伸ばした。
何かを掴んだ。
布だった。
直後、湯殿の仕切り戸が開いた。
「馬鹿、寝るなって言っただろ!」
ヘルマが飛び込んできた。
着衣のまま。
手には大きな湯かき棒。
そして俺の右手は、そのヘルマの腰布の端を掴んでいた。
沈黙。
湯気。
白い湯。
ヘルマの目。
俺の右手。
リューリックの絶望的に静かな顔。
「……ロド」
ヘルマの声が低くなった。
「違う」
「何が違う」
「これは、転倒防止上の緊急把持であって」
リューリックが横から言った。
「殿下、言い訳としては最低点でございます」
「助けろ!」
「女将殿、申し訳ございません。主君は現在、湯場事故と羞恥事故を同時に起こしております」
「分類するな!」
ヘルマは、無言で湯かき棒を持ち上げた。
「待て。怪我人だ」
「知ってるよ」
「左肩はやめろ」
「頭にする」
「それもやめろ!」
ぽこん、といい音がした。
痛くはない。
いや、少し痛い。
湯かき棒の平たい部分で、額を軽く叩かれた。
湯場宿の制裁としては、かなり手加減されている。
だが、精神的にはだいぶ痛い。
「次に寝たら、湯から引き上げて廊下に転がすよ」
「申し訳ありません」
「あと、腰布を離しな」
「はい」
俺は手を離した。
リューリックが素早く俺の体勢を支え、肩が湯につかない位置へ戻す。
完璧だ。
完璧すぎて腹が立つ。
ヘルマは腰布を直した。
顔は怒っている。
でも、耳のあたりが少し赤い。
俺はそれを見てしまった。
見てしまったが、言わなかった。
ここで言えば、湯かき棒の二撃目が来る。
俺も学習している。
「今、何か見た顔をしたね」
「してない」
「嘘だね」
「湯気だ」
「湯気のせいにする男は、だいたい見てる」
「経験が多すぎるだろ、この宿」
「湯場宿だからね」
ヘルマはふんと鼻を鳴らして出ていった。
戸が閉まる。
少しして、外から声が聞こえた。
「サンドル、あんたもちゃんと見てな!」
「申し訳ございません。監視強度を上げます」
「上げるな!」
湯気の中で、リューリックが深く息を吐いた。
「殿下」
「何だ」
「エルゼ殿への報告項目が増えました」
「絶対に書くな」
「湯場にて転倒未遂。女将腰布緊急把持。額部軽打。反省あり」
「反省はある。記録はするな」
「私的に」
「するな!」
俺の声が湯殿に響いた。
脇腹が少し痛んだ。
だが、その痛みすら、どこか馬鹿馬鹿しくて、少しだけ救われた。
湯場宿の夜は、思ったよりにぎやかだった。




