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第十五部 湯場宿ヘルマと、白湯鹿の湯の話 ① 白湯鹿亭

 湯というものを、俺は少し甘く見ていた。


 熱い水だろう、と思っていた。


 体を温める。


 泥を落とす。


 汗を流す。


 傷がなければ、少し気分がよくなる。


 それくらいのものだと思っていた。


 だが、傷を持ったまま入る湯は違う。


 水が肌に触れる前に、体が先に身構える。


 包帯をほどく前に、痛みが目を覚ます。


 湯気の向こうに、縫われた自分の体が見える。


 動かなかった腕。


 開きかけた脇腹。


 誰かに支えられなければ立てなかった足。


 湯は、汚れだけではなく、見ないふりをしていたものまで浮かせる。


 だから、湯場宿というのは、ただ休む場所ではない。


 逃げてきた者が、逃げてきた体を一度見せられる場所だ。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ロド・カナリ。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。


 今回は、死にかけたあと、湯に入れられた。


 そして、湯より熱い女将に叱られた。


 正直、少しだけ元気が出た。


 悔しい。



 ◇



 灰柳の分岐から南西へ二日。


 道は少しずつ細くなった。


 帝国軍の標識は消え、商隊の目印も少なくなり、代わりに古い石積みと、鹿の角を模した木札が道端に現れるようになった。


 白湯鹿亭。


 テオの書付にあった湯場宿は、地図の上では宿と呼ぶのもためらうくらい小さな場所だった。


 丘のくぼみに、木造の建物が二軒。


 湯気の立つ細い水路。


 湯を冷ますための石桶。


 裏手には、白っぽい岩肌からぬるい湯が染み出している。


 宿の看板には、湯気をまとった鹿の絵が描かれていた。


 絵は下手だった。


 だが、妙に愛嬌がある。


「ここか」


「書付の記載と一致します」


 リューリックが封書を確認した。


「白湯鹿亭。女将、ヘルマ。テオ殿の書付あり」


「名前だけ聞くと、ありがたい宿っぽいな」


「実態は確認が必要でございます」


「お前は宿にも疑い深い」


「殿下の宿運は、女性運と同じく波が激しいため」


「女将は女性だぞ」


「ですので、警戒しております」


「俺を何だと思ってる」


「病み上がりの壊れ物でございます」


「まだその分類か」


 馬車が宿の前で止まる。


 俺は降りようとした。


 右足を出す。


 地面が少し遠い。


 肩が先に嫌な予感を出す。


 脇腹が、やめておけ、と低く言う。


 俺は何でもない顔を作った。


 その瞬間、宿の戸が開いた。


「その足の出し方、やめな」


 低い女の声だった。


 戸口に、女将が立っていた。


 年は四十前後。


 背は高くない。


 だが、腰が強い。


 黒に近い茶髪を布でまとめ、腕まくりをしている。


 湯気と灰と麦粉の匂いが似合う女だった。


 顔立ちは整っているというより、よく働く顔だ。


 目が早い。


 相手の荷物と足元と顔色を、一息で見る。


「左を庇ってる。脇腹もやってるね。降りるなら右からじゃない。こっちに回しな」


「……いきなりよく見るな」


「湯場宿の女将だよ。怪我人の降り方くらい見る」


「ヘルマさんですか」


 リューリックが一礼した。


「テオ殿より書付を預かっております」


「テオ?」


 女将ヘルマは眉を上げた。


「まだ生きてるのかい、あの口だけ上等な海商人」


「はい。少なくとも昨日の昼までは」


「じゃあ今日もたぶん生きてるね。あの男は、死ぬ時も値切りそうだから」


「たいへん的確な人物評かと」


「お前さん、見た目より口が合うね」


「恐れ入ります」


 ヘルマは封書を受け取り、中身を読んだ。


 読みながら、口元だけで笑う。


「ロド・カナリ。退院直後。南方療養地行き。壊れ物。口は元気。金は渋い。サンドルが値切る」


「余計なことを書いてるな、あの商人!」


「だいたい必要なことだよ」


「金は渋くない」


「銀貨六枚まで値切ったって書いてある」


「リューリックがやった」


「つまり渋い客だ」


 ヘルマは書付を畳んだ。


「部屋は一つ空いてる。馬小屋じゃない方だ。ありがたく思いな」


「助かります」


 リューリックが言うと、ヘルマは俺を指さした。


「で、そっちの壊れ物。自力で降りたい顔をしてるけど、今やると湯に入る前に寝込むよ」


「俺はそこまで弱ってない」


「じゃあ試すかい」


 俺は降りようとした。


 右足を地面へ。


 体重を移す。


 肩が痛む。


 脇腹が引きつる。


 膝が少し笑う。


 俺は、何でもない顔を作った。


 作ったつもりだった。


 ヘルマが一言。


「はい、嘘」


「早いな」


「湯場宿の女将をなめるんじゃないよ」


 リューリックが、後ろから俺の体を支えた。


「殿下、降車補助を受け入れてください」


「殿下って呼ぶな。ここは宿だ」


「では、壊れ物様」


「もっと悪い」


 ヘルマが声を出して笑った。


「なるほどね。テオが面白がるわけだ」


 こうして俺は、初対面の女将に嘘を見抜かれ、リューリックに壊れ物様と呼ばれ、白湯鹿亭の戸口をくぐった。


 旅の尊厳というものは、湯場宿の前では湯気より薄い。



 ◇



 白湯鹿亭の中は、思ったより清潔だった。


 豪華ではない。


 床板は古い。


 壁も少し歪んでいる。


 だが、掃除が行き届いている。


 湯気の湿り気があるのに、黴臭くない。


 廊下には乾いた布が吊られ、階段の角には小さな砂袋が置いてある。


 滑り止めだ。


 怪我人が来る宿なのだと、すぐ分かる。


 部屋は二階ではなく、一階の奥だった。


「階段は駄目だ」


 ヘルマが言った。


「俺は階段くらい」


「駄目だ」


「まだ言い切ってない」


「言い切る前に駄目だ」


「この宿、女将が強いな」


「弱い女将の宿は、戦場近くじゃ三日で潰れるよ」


 部屋には寝台が二つ。


 窓の外には、湯気の立つ石桶が見えた。


 遠くに林。


 その向こうに、細い道。


 トルガウの軍病院の匂いとは違う。


 ここは戦場ではない。


 だが、戦場からこぼれてきた人間を受ける場所だった。


 壁に掛けられた古い外套。


 机の上の欠けた湯呑み。


 窓枠に残る爪の傷。


 誰かがここで痛みに耐え、誰かがここで熱を出し、誰かがここからまた道へ出た。


 宿というものは、人を泊めるだけではない。


 少しだけ、人の途中を預かる。


 そう思った。


「まず湯じゃない」


 ヘルマが言った。


「先に飯だ」


「湯場宿なのに」


「空腹で湯に入る馬鹿は、湯場宿では馬鹿の中でも上位だよ」


「俺、まだ何もしてないのに評価が低い」


「怪我人は初手でだいたい馬鹿をやる」


「偏見だ」


 リューリックが静かに言った。


「統計的には正確かと」


「お前はどっちの味方だ」


「殿下の生命維持側でございます」


「味方って言え」


「場合によります」


 ヘルマは、俺たちを眺めてまた笑った。


「いいね。退屈しなさそうだ」


「宿代を安くしてくれ」


「面白料で相殺だね」


「取るのか」


「湯も薪も米もただじゃない」


 その現実的な返しに、少し安心した。


 聖女みたいな女将より、金を取る女将の方が信用できる。


 少なくとも、どこで帳尻を合わせるか見える。



 ◇



 飯は、粥ではなかった。


 麦飯を柔らかく炊いたものに、鹿肉の薄い汁。


 湯場で採れるという白い根菜の煮物。


 塩は少ない。


 だが、温かい。


 トルガウのエルゼの粥より味が濃く、テオの薬草鍋より穏やかだった。


「うまい」


「なら食いな」


 ヘルマは当然のように言った。


「褒めても安くならないか」


「ならない」


「厳しい」


「褒め言葉で薪が割れるなら、いくらでも聞くよ」


 リューリックが、皿の位置を少し変えた。


 俺が右手だけで取りやすいように。


 ヘルマがそれを見て、頷いた。


「よく見てるね」


「職務です」


「家令か何かかい」


 リューリックの手が、ほんの一瞬止まった。


 本当に、ほんの一瞬。


 俺でなければ気づかなかったかもしれない。


「便宜上は、同行管理者でございます」


「便宜上ね。便利な言葉だ」


「たいへん便利です」


「便利すぎる言葉は、だいたい何か隠してる」


 ヘルマは皿を置きながら言った。


 声は軽い。


 だが、目は笑っていない。


 この女将も、余白を見る側だ。


 エルゼは余白に人を残す。


 テオは余白で値段を測る。


 ヘルマは余白で客の危険を嗅ぐ。


 世界は余白だらけだ。


「隠してるものがある客は嫌いか」


 俺が訊くと、ヘルマは肩をすくめた。


「宿に来る客は、だいたい何か隠してるよ。財布の中身。逃げた理由。傷の深さ。帰る家のなさ。嫌いだったら宿なんかやってない」


「じゃあ何が嫌いだ」


「隠してるくせに、何もない顔をする客だね」


 俺は黙った。


 自分のことを言われた気がしたからだ。


 ヘルマは俺の顔を見て、少し笑った。


「刺さったかい」


「少しな」


「なら飯を食いな。刺さった時は、まず食う。考えるのはそのあとだ」


「湯場宿の教えか」


「女将の経験だよ」


 俺は飯を食った。


 温かいものが腹に入る。


 それだけで、痛みが少しだけ場所を変えた。


 消えない。


 ただ、全身に散っていたものが、少しだけ形になる。


 痛みも、空腹も、寂しさも、全部一緒くたになると人は弱る。


 飯は、その一つを少し分けてくれる。


 エルゼなら、きっとこう言う。


 空腹と疼痛の分離。


 いや、そこまで言わないか。


 言いそうでもある。


 俺は少し笑った。


「また病棟記録係のことを考えてますね」


 リューリックが言った。


「読むな」


「顔に、余白、と書いてございました」


「俺の顔は紙じゃない」


「近頃、かなり書き込みが多いかと」


 ヘルマが興味深そうに俺たちを見た。


「病棟記録係?」


「トルガウで世話になった」


「女かい」


「女だ」


「ふうん」


 その「ふうん」は、かなり女将だった。


 俺は嫌な予感がした。


「言っておくが、そういう相手じゃない」


「まだ何も聞いてないよ」


「顔が聞いてた」


「顔に出たかい」


「出てた」


 ヘルマは笑った。


「で、そっちの同行管理者が、やけに静かになったけど」


 リューリックが茶を飲んだ。


 静かに。


 とても静かに。


 不自然なくらい静かに。


「お前、茶で隠れるな」


「喉を潤しております」


「動揺した時の茶だな」


「茶は常に有用でございます」


 ヘルマの目が楽しそうに細くなった。


「なるほどね」


「何がなるほどだ」


「宿には、まだ来てない人の気配も泊まるんだよ」


「急に深いことを言うな」


「女将だからね」


 リューリックは何も言わなかった。


 だが、耳のあたりが少しだけ固い。


 俺はそれを見て、飯が少しうまくなった。


 人の動揺をおかずにするのは、あまり褒められたことではない。


 だが、俺は今、怪我人だ。


 怪我人には多少の娯楽が必要である。


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