第十六部 町医者の娘ニーナと、空っぽの革袋の話 ② 空っぽの革袋
俺は壁際の診察椅子に座らされた。
老人が退院証を読む。
まず署名。
次に傷の欄。
そして、余白。
「痛み申告可能。無理をすると悪化。長期静養より、短距離移動を挟む療養が望ましい。……良い記録係に当たったな」
「ええ」
俺より先に、リューリックが答えた。
しかも、実に自然に。
ニーナが患者の包帯を結びながら、ちらりとリューリックを見た。
「リューリックさん、今ちょっと嬉しそうだった?」
「事実を述べただけでございます」
「ふうん」
「何でしょう」
「何でもない」
ニーナは口元だけで少し笑った。
リューリックは顔を変えない。
だが、耳のあたりがほんの少し硬い。
俺は見逃さなかった。
見逃さなかったが、今言うと俺の傷の診察が荒くなる気がしたので、黙った。
俺も学習している。
老人が俺の包帯に手をかけた。
「上着を脱げ」
「自分でできる」
「遅い」
「もう少し気遣え」
「気遣っているから脱がせる」
リューリックが袖を抜く手伝いをしようとする。
「袖くらい自分で」
左肩が痛んだ。
「……袖は頼む」
「承知しました」
リューリックは何も言わずに袖を抜いた。
ニーナが遠くから言った。
「今、絶対に無理しようとしたでしょ」
「見てないだろ」
「見なくても分かる」
「怖いな」
「怖いのは、会うたびに怪我の履歴が増えるあんたの体だよ」
老人が包帯をほどき、傷を見る。
縫合部の周りを指で押す。
痛い場所を、迷わず押す。
「痛い」
「ここか」
「押したからだ」
「押さなきゃ分からん」
「ニーナと同じことを言うな」
「教えたのは、あいつの父親だ」
老人の声が、少しだけ低くなった。
「あいつの父親は、よく言っていた。痛みは敵じゃない。見張りだ。殺しすぎると、体が落ちる場所を忘れる」
ニーナの手が、中央の寝台の上で一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だ。
だが、狭い診療所では、その一瞬も空気に出る。
彼女は何も言わなかった。
包帯を結び終え、患者の指先を見て、血色を確認する。
それから、患者に向かって言った。
「よし。これでしびれが出たら、すぐ来て。次は自分で締め直さないこと。いい?」
「はい」
「返事だけじゃなくて、実行」
患者が出ていく。
その隙間で、ニーナがこちらへ来た。
手を布で拭きながら、俺の肩を覗き込む。
近い。
薬草と石鹸と汗の匂いがする。
「開いてない?」
ニーナが老人に訊く。
「開いてはおらん。だが、深い。旅には早い」
「だよね」
「だよね、じゃない。本人に言え」
ニーナは俺を見た。
「旅には早い」
「みんなそれを言う」
「みんな正しい」
「それも最近よく言われる」
「じゃあ覚えなさい」
「努力する」
「実行」
「お前まで」
「うちが言うのは当然でしょ」
ニーナは俺の肩の周りをそっと押した。
老人より少し丁寧だ。
だが、痛い場所に関しては容赦がない。
「痛い?」
「少し」
「少し、じゃなくて」
「……中くらい」
「よし」
「よしなのか」
「嘘よりは」
ニーナの指が、包帯の端を整える。
近い。
ただの患者と医療者なら、ここまで落ち着かないはずがない。
あの診療所の棚。
肩車。
床に転がった二人。
ラートブルックの洗濯場。
濡れた石床。
声をかけてから支えた手。
いろいろあった。
ありすぎた。
そのせいで、彼女の指が包帯に触れるだけで、俺の頭の中に余計な記録が開く。
ニーナの耳も、少し赤い。
たぶん、同じ記録を開いている。
だが、口は強い。
「……何か思い出してる顔」
「思い出してない」
「嘘」
「少しだけだ」
「最低」
「お前も耳が赤いぞ」
「医療的発赤」
「便利な言葉を覚えたな」
「患者のせい」
薬箱の角が、俺の脇腹に軽く入った。
「痛い」
「生きてる」
「生存確認が雑だ」
「うちの診療所では、会話できる患者は後回し」
「ひどい診療所だ」
「忙しい診療所なの」
老人が、横から鼻を鳴らした。
「いちゃつくなら、包帯を巻いてからにしろ」
「いちゃついてない!」
ニーナが即答した。
俺も言おうとした。
出遅れた。
それがなぜか悔しかった。
リューリックが、入口横でたいへん静かに目を伏せた。
「殿下、診療所内での再発症はお控えください」
「お前も乗るな」
狭い診療所の中で、子どもが咳をしながら少し笑った。
その笑いで、診療所の空気が少しだけ軽くなった。
ニーナはすぐに子どもの方へ行き、水を飲ませた。
俺はその背中を見た。
父親はいない。
いないまま、この診療所は動いている。
白髪の老人が薬を量り、看護助手が布を運び、リューリックが邪魔にならない位置へ下がり、ニーナが怒りながら全部をつないでいる。
父の空白を、誰か一人が埋めているわけではない。
空白の周りを、みんなで踏まないように歩いている。
その中心で、ニーナが走っている。
◇
診療所が少し落ち着いた頃、リューリックが革袋と小銭袋を広げた。
場所は診療所の裏の離れだ。
以前、薬草干し場だった小屋を、今は客用に片づけてある。
壁には乾いた葉の匂いが残っている。
窓の外では、ニーナが洗った包帯を干していた。
その向こうで、看護助手が湯を運んでいる。
さらに奥で、居候老人が薬を量っている。
リンデン診療所は、やはりニーナだけで回っているわけではない。
だが、中心の足音はニーナだ。
彼女が走ると、診療所全体が動く。
彼女が止まると、誰かがそこへ手を伸ばす。
父親はいない。
いないまま、診療所は動いている。
「殿下」
「何だ」
「路銀が厳しい状況です」
「分かってる」
「銀貨二枚、銅貨十七枚。削れたグランデル小銀貨一枚。テオ殿の書付は使用済み。ヘルマ殿への宿代、木炭荷車の支払い、薬草商隊の費用で、想定より減っております」
「俺の尊厳はまだ売れるか」
「一部、販促資材として有用かと」
「売りたくないな」
「しかし、需要はございます」
「俺の尊厳に需要がある世界、嫌だな」
リューリックは、削れた小銀貨を机に置いた。
縁が薄い。
刻印も曖昧だ。
「この小銀貨は、ここでも額面どおりには使えないでしょう」
「グランデル帝国の硬貨なのにか」
「削られております。さらに、最近は王国銀貨、ブリエン銀貨、レヴォナ軽銀、帝国小銀が市場で混在しております」
「レヴォナ」
「西の自由都市です。商人の流れに乗って、こちらにも軽銀が入ってきているようです」
「俺たちは金がないだけじゃなく、持ってる金まで信用できないのか」
「はい。金欠と貨幣不信が同時発生しております」
「言い方が重い」
「現実はさらに重いです」
「やめろ」
そこへ、ニーナが入ってきた。
手には、洗った包帯を入れた籠。
「何の話?」
「路銀がない話」
「ああ。そういう顔してる」
「金がない顔って何だ」
「あんたの場合、惚れた時より少し情けない顔」
「比べるな」
「どっちも分かりやすいよ」
ニーナは籠を置き、机の上の硬貨を見た。
目が少し細くなる。
「この小銀貨、軽いね」
「お前も分かるのか」
「最近多いもの。村の市でも揉める。薬を買いに来た人が、軽い銀貨しか持ってなくて、でも薬は必要で、値段をどうするかでみんな困る」
「薬にも貨幣戦争か」
「難しい言葉にしないで。こっちは、薬草が買えるかどうかの話なの」
ニーナの言葉は、リューリックの説明よりずっと近かった。
薬草が買えるか。
包帯が買えるか。
患者が帰らずに済むか。
硬貨の信用は、村ではそういう形で刺さる。
「明日、小さな市が立つ」
ニーナが言った。
「診療所も薬草と包帯を少し出す。人手が足りない」
「つまり?」
「あんた、働ける?」
「怪我人だぞ」
「立てる?」
「少しなら」
「喋れる?」
「それはだいぶ」
「じゃあ働ける」
「判定が雑だ」
「悪い見本として、客寄せして」
俺は黙った。
リューリックが、静かに頷いた。
「たいへん合理的な雇用形態です」
「お前は少し俺の味方をしろ」
「殿下の尊厳を若干消費しますが、路銀確保には有効です」
「若干か?」
「かなり、かもしれません」
「訂正しなくていい」
ニーナは笑った。
「大丈夫。あんた、悪い見本としてはかなり優秀だから」
「褒めてないよな」
「褒めてる。医療的に」
「医療的に褒められると、なぜか傷つく」
「生きてる証拠」
俺は、革袋の中で空の硝子管が鳴るのを聞いた気がした。
働くしかない。
死にかける以外の仕事をするのは、久しぶりだった。




