表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

92/290

第十六部 町医者の娘ニーナと、空っぽの革袋の話 ② 空っぽの革袋

 俺は壁際の診察椅子に座らされた。


 老人が退院証を読む。


 まず署名。


 次に傷の欄。


 そして、余白。


「痛み申告可能。無理をすると悪化。長期静養より、短距離移動を挟む療養が望ましい。……良い記録係に当たったな」


「ええ」


 俺より先に、リューリックが答えた。


 しかも、実に自然に。


 ニーナが患者の包帯を結びながら、ちらりとリューリックを見た。


「リューリックさん、今ちょっと嬉しそうだった?」


「事実を述べただけでございます」


「ふうん」


「何でしょう」


「何でもない」


 ニーナは口元だけで少し笑った。


 リューリックは顔を変えない。


 だが、耳のあたりがほんの少し硬い。


 俺は見逃さなかった。


 見逃さなかったが、今言うと俺の傷の診察が荒くなる気がしたので、黙った。


 俺も学習している。


 老人が俺の包帯に手をかけた。


「上着を脱げ」


「自分でできる」


「遅い」


「もう少し気遣え」


「気遣っているから脱がせる」


 リューリックが袖を抜く手伝いをしようとする。


「袖くらい自分で」


 左肩が痛んだ。


「……袖は頼む」


「承知しました」


 リューリックは何も言わずに袖を抜いた。


 ニーナが遠くから言った。


「今、絶対に無理しようとしたでしょ」


「見てないだろ」


「見なくても分かる」


「怖いな」


「怖いのは、会うたびに怪我の履歴が増えるあんたの体だよ」


 老人が包帯をほどき、傷を見る。


 縫合部の周りを指で押す。


 痛い場所を、迷わず押す。


「痛い」


「ここか」


「押したからだ」


「押さなきゃ分からん」


「ニーナと同じことを言うな」


「教えたのは、あいつの父親だ」


 老人の声が、少しだけ低くなった。


「あいつの父親は、よく言っていた。痛みは敵じゃない。見張りだ。殺しすぎると、体が落ちる場所を忘れる」


 ニーナの手が、中央の寝台の上で一瞬だけ止まった。


 ほんの一瞬だ。


 だが、狭い診療所では、その一瞬も空気に出る。


 彼女は何も言わなかった。


 包帯を結び終え、患者の指先を見て、血色を確認する。


 それから、患者に向かって言った。


「よし。これでしびれが出たら、すぐ来て。次は自分で締め直さないこと。いい?」


「はい」


「返事だけじゃなくて、実行」


 患者が出ていく。


 その隙間で、ニーナがこちらへ来た。


 手を布で拭きながら、俺の肩を覗き込む。


 近い。


 薬草と石鹸と汗の匂いがする。


「開いてない?」


 ニーナが老人に訊く。


「開いてはおらん。だが、深い。旅には早い」


「だよね」


「だよね、じゃない。本人に言え」


 ニーナは俺を見た。


「旅には早い」


「みんなそれを言う」


「みんな正しい」


「それも最近よく言われる」


「じゃあ覚えなさい」


「努力する」


「実行」


「お前まで」


「うちが言うのは当然でしょ」


 ニーナは俺の肩の周りをそっと押した。


 老人より少し丁寧だ。


 だが、痛い場所に関しては容赦がない。


「痛い?」


「少し」


「少し、じゃなくて」


「……中くらい」


「よし」


「よしなのか」


「嘘よりは」


 ニーナの指が、包帯の端を整える。


 近い。


 ただの患者と医療者なら、ここまで落ち着かないはずがない。


 あの診療所の棚。


 肩車。


 床に転がった二人。


 ラートブルックの洗濯場。


 濡れた石床。


 声をかけてから支えた手。


 いろいろあった。


 ありすぎた。


 そのせいで、彼女の指が包帯に触れるだけで、俺の頭の中に余計な記録が開く。


 ニーナの耳も、少し赤い。


 たぶん、同じ記録を開いている。


 だが、口は強い。


「……何か思い出してる顔」


「思い出してない」


「嘘」


「少しだけだ」


「最低」


「お前も耳が赤いぞ」


「医療的発赤」


「便利な言葉を覚えたな」


「患者のせい」


 薬箱の角が、俺の脇腹に軽く入った。


「痛い」


「生きてる」


「生存確認が雑だ」


「うちの診療所では、会話できる患者は後回し」


「ひどい診療所だ」


「忙しい診療所なの」


 老人が、横から鼻を鳴らした。


「いちゃつくなら、包帯を巻いてからにしろ」


「いちゃついてない!」


 ニーナが即答した。


 俺も言おうとした。


 出遅れた。


 それがなぜか悔しかった。


 リューリックが、入口横でたいへん静かに目を伏せた。


「殿下、診療所内での再発症はお控えください」


「お前も乗るな」


 狭い診療所の中で、子どもが咳をしながら少し笑った。


 その笑いで、診療所の空気が少しだけ軽くなった。


 ニーナはすぐに子どもの方へ行き、水を飲ませた。


 俺はその背中を見た。


 父親はいない。


 いないまま、この診療所は動いている。


 白髪の老人が薬を量り、看護助手が布を運び、リューリックが邪魔にならない位置へ下がり、ニーナが怒りながら全部をつないでいる。


 父の空白を、誰か一人が埋めているわけではない。


 空白の周りを、みんなで踏まないように歩いている。


 その中心で、ニーナが走っている。



 ◇



 診療所が少し落ち着いた頃、リューリックが革袋と小銭袋を広げた。


 場所は診療所の裏の離れだ。


 以前、薬草干し場だった小屋を、今は客用に片づけてある。


 壁には乾いた葉の匂いが残っている。


 窓の外では、ニーナが洗った包帯を干していた。


 その向こうで、看護助手が湯を運んでいる。


 さらに奥で、居候老人が薬を量っている。


 リンデン診療所は、やはりニーナだけで回っているわけではない。


 だが、中心の足音はニーナだ。


 彼女が走ると、診療所全体が動く。


 彼女が止まると、誰かがそこへ手を伸ばす。


 父親はいない。


 いないまま、診療所は動いている。


「殿下」


「何だ」


「路銀が厳しい状況です」


「分かってる」


「銀貨二枚、銅貨十七枚。削れたグランデル小銀貨一枚。テオ殿の書付は使用済み。ヘルマ殿への宿代、木炭荷車の支払い、薬草商隊の費用で、想定より減っております」


「俺の尊厳はまだ売れるか」


「一部、販促資材として有用かと」


「売りたくないな」


「しかし、需要はございます」


「俺の尊厳に需要がある世界、嫌だな」


 リューリックは、削れた小銀貨を机に置いた。


 縁が薄い。


 刻印も曖昧だ。


「この小銀貨は、ここでも額面どおりには使えないでしょう」


「グランデル帝国の硬貨なのにか」


「削られております。さらに、最近は王国銀貨、ブリエン銀貨、レヴォナ軽銀、帝国小銀が市場で混在しております」


「レヴォナ」


「西の自由都市です。商人の流れに乗って、こちらにも軽銀が入ってきているようです」


「俺たちは金がないだけじゃなく、持ってる金まで信用できないのか」


「はい。金欠と貨幣不信が同時発生しております」


「言い方が重い」


「現実はさらに重いです」


「やめろ」


 そこへ、ニーナが入ってきた。


 手には、洗った包帯を入れた籠。


「何の話?」


「路銀がない話」


「ああ。そういう顔してる」


「金がない顔って何だ」


「あんたの場合、惚れた時より少し情けない顔」


「比べるな」


「どっちも分かりやすいよ」


 ニーナは籠を置き、机の上の硬貨を見た。


 目が少し細くなる。


「この小銀貨、軽いね」


「お前も分かるのか」


「最近多いもの。村の市でも揉める。薬を買いに来た人が、軽い銀貨しか持ってなくて、でも薬は必要で、値段をどうするかでみんな困る」


「薬にも貨幣戦争か」


「難しい言葉にしないで。こっちは、薬草が買えるかどうかの話なの」


 ニーナの言葉は、リューリックの説明よりずっと近かった。


 薬草が買えるか。


 包帯が買えるか。


 患者が帰らずに済むか。


 硬貨の信用は、村ではそういう形で刺さる。


「明日、小さな市が立つ」


 ニーナが言った。


「診療所も薬草と包帯を少し出す。人手が足りない」


「つまり?」


「あんた、働ける?」


「怪我人だぞ」


「立てる?」


「少しなら」


「喋れる?」


「それはだいぶ」


「じゃあ働ける」


「判定が雑だ」


「悪い見本として、客寄せして」


 俺は黙った。


 リューリックが、静かに頷いた。


「たいへん合理的な雇用形態です」


「お前は少し俺の味方をしろ」


「殿下の尊厳を若干消費しますが、路銀確保には有効です」


「若干か?」


「かなり、かもしれません」


「訂正しなくていい」


 ニーナは笑った。


「大丈夫。あんた、悪い見本としてはかなり優秀だから」


「褒めてないよな」


「褒めてる。医療的に」


「医療的に褒められると、なぜか傷つく」


「生きてる証拠」


 俺は、革袋の中で空の硝子管が鳴るのを聞いた気がした。


 働くしかない。


 死にかける以外の仕事をするのは、久しぶりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ