第二部 診療所のニーナと、消える子供たちの話 ③ 〜踏み台〜
診療所の隅に、いつも一人で白髪の老人が座っていた。
老人は、何もしていなかった。
──と、思ったら、ニーナの手が足りなくなると、彼は黙って立ち上がり、薬を計り、包帯を巻き、骨折の固定をした。
老人の手つきは、玄人だった。
ただし、リヴェンの野戦病院で会ったあの老軍医とは別人だった。
あの老軍医は、目に「全部見ているぞ」という光があった。
この老人は、目に「もう何も見たくない」という、別の種類の光があった。
どちらも、長く戦場の医療をしてきた目だ。
ただし、行き先が違う。
ひとりは、まだ戦場に残った。
ひとりは、戦場をもう降りた。
俺はある日、老人の隣に座って、
「あんた、医者か」
「昔な」
「どこの」
「……ふん」
「軍医か」
「……ふん」
「引退して、流れ着いたのか」
「ふん」
「ふん、ばっかりだな」
「年寄りは、これで十分だ」
「いま、何の役で、ここに?」
「居候だ」
「居候にしてはよく働く」
「よく働くなら居候じゃない」
「じゃあ何だ」
「居候より、ちょっと、忙しい居候だ」
老人は、それだけ言って、また座った。
軍医だと、俺は察した。
引退した軍医が、この村に流れ着いて、ニーナの診療所に「居候」している。
表向きはただの居候だが、実態はニーナの最大の支援者だ。
老人は、俺の肩の傷を、一度だけ横目で見た。
ふっと、鼻を鳴らした。
それだけだった。
それで充分だった。
──またこれか。
俺の傷は玄人が見るとすぐ「都合のいい場所」だと分かるらしい。
玄人が二人連続で気付くということは、俺の戦法は、もしかすると、軍医界の共通教材に載っているのかもしれない。
次の戦場では、ちょっと斬られ方を変えた方がいいのかもしれない。
ただし、変えてもたぶんまた気付かれる。
変えたということ自体が、ひとつの癖になるからだ。
その夜、宿屋に戻ってリューリックに話した。
「あいつも、引退軍医らしい」
「リヴェンの方も、軍医でしたな」
「うん」
「殿下、軍医に対する引きが強うございます」
「俺は、戦場で軍医に近い場所で動いているからな」
「近いというより、軍医の机の上で計算しておられます」
「……うるさい」
◇
四日目の昼。
いつものように、診療所で、俺は手伝いをしていた。
手伝い、というより、ニーナに使われていた。
この時間は珍しく患者もおらず、他の看護師達も外へ出払っており、ニーナと俺だけになっていた。
いきなり、ニーナが、
「ちょっと、傭兵」
「俺はレオンだ」
「呼び捨てで良いって言ったでしょ」
「そうは言ったが、せめて名前で呼んでくれ」
「面倒くさい男」
「……それは、知ってる」
「知ってんなら、薬棚の一番上、取って」
「あんた、自分で取れよ」
「届かないの、見れば分かるでしょ、バカ」
「踏み台はないのか」
「修理中」
「俺の肩、まだ完全には」
「分かってる。だから私が乗る」
「……は?」
「あんたの背中、貸して」
──え。
俺が反応する前に、ニーナは、もう、俺の背中に飛び乗っていた。
◇
ニーナの動きは、迷いがなかった。
小柄なのに跳躍の力がある。
毎日走り回っている脚力が、こういう瞬間に出る。
ニーナの両腕が、俺の肩に添えられたと思ったら、ヒョイッと飛び乗って来た。
するとニーナの太腿が俺の顔の頬の両側に密着し、頭を固定した。
肩車、というやつだった。
俺は、混乱した。
俺の鎧の上の肩に、ニーナの体重が、ずん、と、乗った。
肩の傷が、ぴり、と、痛んだ。
が、痛みより先に、俺の脳が、別の警報を、鳴らした。
──まずい。
目の前が、白い。
ニーナの太腿が、俺の鼻先で左右に揺れている。
春先の、まだ少しひんやりした診療所の空気の中で、その太腿だけが、温かい。
明らかに温かい。
俺の生存戦略には、肩車の項目は入っていない。
「ちょっと、待て、こんな格好で」
「いいから、棚の方に向いて」
「向いた」
「ちょっと前!」
「前ってどっち」
「私の指差してる方!」
「あんた、俺の頭の上にいるのに、どっちを指差してるか、見えるわけないだろ!」
「右! 右!」
「右のどれくらいだ?」
「一歩右」
「これくらいか」
「行き過ぎ、もう少し左に戻って」
「こっちか」
「そう! そこ」
俺は、ふらつきながら、言われるがままに進んだ。
二歩、進んだだけで、ニーナの体重で、腰がぐらついた。
俺の左肩の傷が、ぴり、ぴり、と、二度、警告を出した。
が、警告を聞いている場合じゃない。
俺の鼻先の太腿が、進行方向を選ぶたびに、わずかに揺れる。
揺れるたびに、わずかな布の擦れる音と、わずかな肌の温度の変化が伝わる。
……俺は、何のために、ここに雇われたんだったかな。
ああ、思い出した。
鎮痛剤の代金、回収だ。
代金はまだ一銅貨も回収できていない。
代わりに回収しているのは、ニーナの太腿の温度だ。
これが銅貨何枚分に換算されるのかは、商売の素人の俺には分からない。
たぶん無償提供だ。
無償提供されているものを回収と呼ぶのは、商売上おかしい。
俺の頭の中で、よく分からない損益計算が始まっていた。
「あった! これ!」
ニーナの声が、頭の上から、降ってきた。
「取れたか?」
「うん、降りるね」
──降りる、と聞いて、俺は、ほっとした。
ほっとしたのが、たぶんいけなかった。
◇
ニーナは、勢いよく、後ろに降りようとした。
勢いがよすぎた。
俺の首の上から、後ろに、ずるりとずり落ちた。
俺は、反射で後ろに振り向きながら、両手を出した。
肩の傷が、ぴしっ、とはっきり痛んだ。
が、ニーナを落とすわけにはいかない。
俺の両手が、ニーナの腰をつかんだ。
つかんだ、つもりだった。
が、勢いに負けて俺は後ろに倒れた。
ニーナも、一緒に倒れた。
二人で診療所の床に転がった。
寝台と寝台の間の、わずかな床のスペースに二人で折り重なった。
俺が下。
ニーナが上。
ニーナの両膝は、俺の腰の脇に密着していた。
ニーナの両手は俺の顔に抱きついた状態になっていた。
つまり俺の顔はニーナの胸の中にあった。
俺は、窒息する顔を、何とか動かそうと、首を左右に振った。
その左右には、大きくはないものの、確かに柔らかく温かい何かが、あった。
しかも、その感触の一部に、なにか小さく、ほんのり固い突起したものがあたるのを、感じた。
ニーナは、下着を着ていなかった。
俺の鼻先と頬の脇で、その突起が、二つ、ふっと、揺れた。
「う……あっ、そこは、やめ……」
ニーナの体が、ほんの一拍、硬直した。
弱い拒絶の声だった。
ただ、抗いの力ではなく、咄嗟の反応に近かった。
俺の頭の中は、真っ白になって、下半身に血流が回り始めていた。
俺はさらに苦しさに、首を、左右に、揺すった。
「だ、だめ、だめだって、あっ……」
ニーナの声が、ほどけ始めた。
強い拒絶の言葉のはずが、語尾が、わずかに、伸びていた。
俺の首が、意図せず、もう一度、揺れた。
左の突起が、ぴたりと、俺の口元に、当たった。
ハッキリと、固くなっていた。
「ひっ……あ、あ、ダメ、それダメ……」
ニーナの両腕が、俺の頭を、なお強く、抱きしめた。
離す気は、ないらしい。
というより、自分が今、何を抱きしめているのか、もう判別できていない顔だった。
俺は、一心不乱に、首を、細かく、振った。
ニーナの胸が、その動きに合わせて、俺の顔に、より強く、押し付けられた。
「あ、あ……はぁ……あぁ、あぁあああ……もうダメ、もう、……はぁーーん」
声が、ほどけきった。
息が、短い。
ニーナの腕の力が、すっと、緩んだ。
ニーナの口が、半開きで固まっていた。
ニーナの呼吸の音は、乱れていた。
短くて、速い息だった。
──まずい。
俺の頭の中の警報は、もう、ベルとは言えない音量で、鳴り続けていた。
俺は窒息寸前であることを思い出して、咄嗟にニーナの腕を解いて、空気を求めて顔を出した。
「ぷっはっ、はぁーはぁーはぁー」
それからゆっくりと俺はニーナの体を押し上げて、自分の体を上半身だけ起こしたところで、俺は異変に気付いた。ニーナの尻が今度は俺の下腹部の上にあり、そこで硬直する何かを押しつぶしていた。
「えっ……なんか固いんだけど……」
「………す、すまない、生理現象だ」
「……」
「……」
しばらく、二人とも、動かなかった。
動けなかった、と言うべきだ。
ニーナの顔が、ゆっくり、ゆっくり、冷静になっていくのが見えた。
それでも顔は赤いというより、ピンク色に火照っていて、頭から首まで全部、同じ色だった。
たぶん、俺の顔も、同じ色だった。
俺たちの上で、診療所の梁が、静かに、見下ろしていた。
梁、というのは、つくづく、無慈悲な観察者だ。
「あの……ニーナ、これは、事故だ。そんなつもりはまったくなくて」
「忘れて、誰にも言わないで、お願いだから……」
ニーナは怒りもせず、殴りもせず、ただただ、火照った顔と羞恥の目で俺に懇願した。
俺は何も言わず、頷くと、下半身の暴走も落ち着くのだった。
それからニーナは薬品の在庫の確認を、俺は部屋の掃除を黙々と行った。
そうこうするうちに、看護師の一人が戻ってきた。
看護師は持っていた桶の水を机に置きながら、不思議そうに問うた。
「何かありましたか?」
「えっ? 何かって何?」
動揺したニーナが質問を質問で返した。
「なんかわからないのですが、いつもの二人にしては、なんかよそよそしい気がして」
「別にそんなことないさ。よし、俺も少し宿に戻る、夕方にまた顔を出す」
そう言って俺は診療所を一旦後にした。
ニーナの顔は、もうピンクではなく、普段の顔に戻っていた。
俺の顔も、たぶん、似たような色だった。
看護師補助の若い娘は、戸口で、湯桶を抱えたまま、目を伏せていた。
たぶん、彼女の中で、何かがひとつ変わった。
たぶん、それは、俺へのわずかな信用というやつだった。




