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第二部 診療所のニーナと、消える子供たちの話 ② 〜ズレた答え〜

 翌朝。


 俺は、宿を出た。


 鎮痛剤の代金を回収しに行く、という口実だった。


 半分は本気で、半分は、もう一度、あの女の顔を見ておきたかった。


 リューリックは「お一人でどうぞ」と笑顔で見送った。


 家臣のくせに、こういう時だけは、妙に放任主義だ。


 放任というより、見送る方が早いと判断している顔だった。


 春の朝の空気は湿っていた。


 夜のうちに降ったらしい雨の匂いが、まだ畑から立ち上っている。


 麦の苗は夜の雨で少しだけ伸びていた。


 たぶん、夜の方が麦は伸びる。


 俺は村の広場を横切った。


 井戸端で村の婆さんが桶を二つ汲み上げていた。


 桶を担ぐ動きが、長年の慣れた効率的な動きだった。


 俺は井戸端の脇を通り過ぎる時、軽く会釈をした。


 婆さんは俺を一瞥して、「ふん」と鼻を鳴らした。


 愛想はない。


 たぶん傭兵というのは、リンデン村では信用ランキング下位の部類らしい。


 仕方ない。


 俺だって傭兵を信用しないからだ。



 ◇



 診療所は、村の中央広場から少し外れた場所にあった。


 板を打ち付けた看板が掛かっている。


 「リンデン診療所」と太い字で、子供が書いたみたいに書かれていた。


 たぶん本当に子供が書いたのだろう。


 その下にもう一行ある。


 「金、なくても診ます」。


 太い字で、同じ手で書かれていた。


 いい看板だ。


 俺は戸を開けた。


 中は修羅場だった。


 藁を敷いた寝台が八つ。


 全部、患者が寝ている。


 難民風の親子、咳が止まらない老人、足を怪我した若い男、頭に包帯を巻いた女の子。


 空気が、湿っていた。


 湯気と消毒液と薬草と汗の匂い。


 前のリヴェン野戦病院の空気と、似ているが、ひとつだけ違う。


 ここは戦場の延長線ではない。


 戦場の行き止まりだった。


 行き場のない者が最後に転がり込む場所。


 その真ん中で、ニーナが走っていた。


 走っていたというのは比喩じゃない。


 彼女は本当に、診療所の中を走っていた。


 左手で湯を運び、右手で器を持ち、口で看護指示を出していた。


 看護師は他に二人いるらしい。


 それぞれ別の患者にかかりきりで、ニーナの口の動きに合わせて、それぞれ動いていた。


 診療所全体が、ニーナの早口で回っていた。


 走るたびに、ニーナの胸が、軽く揺れる。


 大きくはない。


 ただ、揺れている。


 たぶん、下着を、満足には、着けていない。


 走り回って一日を回している娘が、毎朝それを着ける時間があるとは、思えなかった。


 俺は、それを、見ないことに、した。


 見ないことに、したが、見えてしまうのは、別の話だった。


「あんた、なんでここに来た」


 俺を見つけたニーナが、走りながら振り向きもせずに言った。


「鎮痛剤の代金を」


「だから、儲かったら払うって」


「儲かってるか」


「儲かってない」


「だろうな」


 ニーナは頭の包帯を巻いた女の子の枕元にしゃがんだ。


 包帯を確認し、声色を変えて、


「リル、もう少し、寝てね」


 と、優しい声で言った。


 さっきまでの早口とは、まったく違う声だった。


 女の子が薄く笑った。


 ニーナの背中が、その時だけ走るのを忘れた。



 ◇



「ねえ」


「何だ」


「あんた、傭兵なんでしょ」


「ああ」


「肩、斬られてんでしょ」


「ああ」


「うちで包帯交換、できる」


「いや、いい」


「いい、じゃない。傷が膿んだら困るでしょ」


「自分でやってる」


「見せて」


「俺は」


「いいから見せて!」


 二度目の「見せて」には、有無を言わせない強さがあった。


 ニーナが、俺の腕を取った。


 迷いがない動作だった。


 手のひらの、皮が硬い。


 毎日、湯と消毒液で水洗いを繰り返している手だった。


 俺は、おとなしく、上着を脱いだ。


 ニーナが、俺の肩の包帯を、解いた。


 傷を覗き込んで、


「……あんた、この傷の入り方」


「ん?」


「これ、わざと、よね」


 俺は固まった。


「……分かるのか」


「分かる。父さんが、よく言ってた。『戦場で都合のいい場所を斬られて運ばれてくる男がいる。たいてい、何かを背負っている』って」


 ──ああ。


 また、これか。


 軍医の世界では、そういう男はそれなりに知られているらしい。


 俺の生存戦略は、医者の世界では、もう「定型」として登録済みということだ。


 ちょっと、不本意である。


「ニーナ、あんたの父さんは」


「町医者だった。十年前に、流行病で死んだ」


「あんたが、診療所を継いだのか」


「継いだのは、二十二の時。今、二十四になった」


「医者の免許は」


「ない」


「看護師の資格は」


「ない。ただ、父さんの隣で、十二年間、見てた」


「十二年か、長いな」


「十二年でも、足りない時は足りない」


 ニーナは、新しい包帯を巻き始めた。


 手つきは雑だったが、結び方は正確だった。


 雑なのは急いでいるからだ。


 正確なのは、巻く前に「ここ」と決めているからだ。


 俺は、その手つきを目で追った。


 いい手つきだった。


 村では、父親の診療所を継いだ娘、という扱いらしい。


 正式な医者ではない。


 だが、正式な医者が来るまで待てる患者も、この村には少なかった。


「ねえ、傭兵さん」


「レオン」


「レオンさん」


「呼び捨てでいい」


「じゃあレオン」


「うん」


「うちの診療所、人手が全然足りないの」


「分かる」


「あんた、肩の傷が癒えるまで、ここにいるんでしょ」


「まあ、数日は」


「手伝ってくれない」


「代金は」


「ない、だから包帯の交換を私がする」


「鎮痛剤の代金は」


「儲かったら返す」


「お前、図々しいな」


「図々しくなきゃ、ここではやってけないの」


 ニーナが語気を強めて懇願した。


 俺は改めて診療所の中を見渡した。あちこちに横たわる患者達。老人、子供、難民、怪我した兵士、体調を崩している妊婦まで、病院の市場みたいな状況の中で、ニーナと二人の看護師が必死になってここを支えている。俺はそれを確認して、改めてニーナの顔を見た。


「わかった。手を貸そう」


 その言葉に、ニーナがふと目を細めて笑った。


「ありがとう、レオン」


 それが、ニーナの最初の笑顔だった。


 笑い皺は、まだ若いせいで、口の脇ではなく、目の脇に小さくできた。


 ──ああ。


 やっぱり、今回も、惚れたな。


 専門技能は、今日も、絶好調だった。



 ◇



 それから三日、俺は診療所に通った。


 朝、宿屋を出て、診療所に着く頃には、ニーナがすでに走り回っている。


 昼、患者の包帯を交換しながら、ニーナが俺に「うん」「だめ」「巻きすぎ」と次々に指示を出す。


 夕、患者が落ち着いてくる頃には、ニーナがやっと水を飲み、それから、一日中歩き回って磨り減った足を、診察台の縁に投げ出す。


 夜、リューリックが宿屋に戻ってきて、部屋の戸を閉めるなり「殿下、今日も無事ですか」と聞いてくる。


 毎日、似たような流れだった。


 初日の昼、ニーナがいきなり、


「これ、巻いて」


 と、患者の腕を渡してきた。


 腕には包帯が必要だった。


 俺は見様見真似で巻いた。


 戻ってきたニーナが、俺の巻いた包帯を見た。


 無言で、解いた。


 無言で、巻き直した。


「……傭兵って、包帯も巻けないの?」


「斬られる側だからな」


「自慢するな」


「……自慢じゃない」


「自慢に聞こえた」


「……すまん」


 その場にリューリックがいたら、肩を震わせて笑っていたに違いない。


 だが、その場にいたのはニーナだけだった。


 ニーナは俺の頬を、ぺちっと軽くはたいた。


「次、ちゃんと、覚えなさい」


「うす」


「そこ、なんで返事だけ、傭兵らしくなるの」


「叱られると、男はそうなる」


「……バカみたい」


 ニーナはふんと鼻で笑った。


 怒っているようで、楽しんでいる声だった。


 ニーナという女は、口で雑に怒りながら、目で薄く笑っている瞬間がたまにある。


 俺はその瞬間を見落とさないように、目で追うようになっていた。



 ◇



 ニーナの口癖は、二つあった。


 ひとつは、「走らないと回らないから」。


 もうひとつは、「あんた、頭に来るね」。


 前者は自分に向けて言うらしい。


 走るたびにぽつりと呟いてまた走る。


 後者は俺に向けてよく言われた。


 一日に三回くらい言われた。


 四日目には、五回に増えた。


「あんた、頭に来るね」


「何が」


「いや、別に。来るだけ」


「理由は」


「言わない」


「言えよ」


「あんた、何を聞かれても、答えがちょっとずつズレてるから」


「ズレてないだろ」


「ズレてる」


「どこ」


「全部」


 ニーナは、そう言って、薬棚の方へ走っていった。


 心なしか、言葉はキツいのに、表情は柔らかい気がした。


 ……ズレてる、か。


 ズレているのは、たぶん、本当のことだ。


 俺は、二十八年、ズレた答えで、生き延びてきた。


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