第二部 診療所のニーナと、消える子供たちの話 ④ 〜走らないと、回らない〜
その日の夕方、診療所の裏で、俺はニーナを捕まえた。
ニーナは井戸端で、桶に頭を突っ込んでいた。
「お前、何してる」
「冷やしてる」
「何を」
「顔」
「……」
「あんたも、冷やせ」
「俺も?」
「あんたの顔も、たぶん、まだ、赤い」
「赤くないだろ」
「赤い」
ニーナは、桶から顔を上げたが、俺の顔は見なかった。
水滴が頬から顎へと伝った。
短く切られた茶色の髪が濡れて、頬に貼り付いた。
その姿は、いつもの「町を回す小娘」とは、別のひとつの娘の姿だった。
……まずい。
惚れる方向が、また、確実に、まずい。
「……さっきは、悪かった」
「べつに」
「いや、本当に悪かった」
「あんたが悪いんじゃない。あんたを踏み台代わりに使った私が悪い」
「だな」
「だな、って言うな、あんたがあんなにスケベだったなんて」
そう言いながら、ニーナは両手で胸を隠すように体を抱えて言った。
その姿が妙に色っぽく見えて、俺は思わず顔を逸らした。
「バカやろう、男ってのは誰でもそんなもんだ。俺だけじゃない」
「なにそれ、まるでだれでも私に反応するみたいな言い草じゃん」
「ばか、そんなことはない、お前が可愛いから、俺だってあんなことになって……」
「私が可愛い……?!」
「いや、ちがう、それは、若い娘なら誰でも可愛いものだ、勘違いするなよ」
「はぁー? あんた舐めているの? 正直に私に欲情したって言いなさいよ、このバカ、変態、スケベ!!」
「何を言うか、お前こそ下着も着ないでいるから、すぐにあんな反応して……」
そう言うと、ニーナの顔が瞬く間に真っ赤になり、俺の頬を今度こそ思い切り平手打ちして、脇に置いてあった桶で頭をかち割った。
「もう死ね、バカ傭兵!! もう知らない」
そう言って絶叫したニーナは半泣き状態で怒鳴りながら、診療所に戻っていった。
道端にいた数人の村人達は、大きな声と共に一人の傭兵が、診療所の娘に殴り倒されるのを静かに見守っていた。もちろん誰一人、俺に駆け寄る者はいなかった。村人全員がニーナの味方だった。
◇
しばらくして、なかなか戻ってこない俺を探し、村を回っていたリューリックが、俺を発見した。
「殿下、気を確かに!! 何か起きて」
慌てて俺を抱きかかえたリューリックだったが、頬に大きく残った紅葉の跡に、全てを察して何も言わず俺を回収するのであった。
◇
俺が目覚めると、宿屋のベッドの上だった。
「殿下、お気づきになられましたか」
「井戸端で、八つ当たりされた」
「ご立派です」
「立派なものか」
「殿下が女性に頬を引っ叩かれる頻度、家令の家系の副業の本義として、記録しております」
「記録するな!」
「記録は、後の世への教材となります」
「家令の家系滅ぼすぞ、お前!」
「家令の家系は、滅ぼされても、副業の本義は残ります」
「お前の本義、滅ぼされても残るのか」
「残ります」
「……」
リューリックは、淡々と、俺の頭に包帯を巻き始めた。
包帯の巻き方が玄人だった。
家令の家系は看護まで範囲らしい。
リューリックは、視線を細めて言った。
「で、また、お惚れですか」
「……明日確認する、と、昨日言ったろ」
「今日、確認なさいましたか」
「……」
「ご丁寧に、頬で彼女の手のひらを確認した、と、お顔に書いてございます」
「お前、家令やめて、空気を読む仕事に就け」
「家令の家系の副業の本義の中に、空気を読む仕事も含まれます」
「お前の本義、何で出来てるんだ」
「殿下のご動向と、空気の温度差で、出来ております」
「俺の動向で、お前の本義が出来てるのか」
「左様で」
「……」
俺は、巻かれた包帯を触った。
ニーナの巻き方とは、やはり別のものだった。
寝ている最中に、きっと頭の包帯は緩む。
ニーナの診療所に、もう一度、世話になる口実ができた。
俺はそれを損益計算に追加した。
◇
診療所にはもうひとりいた。
八歳くらいの女の子。
頭に、包帯を巻いていた。
リヴェンの戦線から逃げてくる途中、馬車から落ちて、頭を打ったらしい。
母親は、はぐれた。
ニーナが、診療所で、拾った。
少女は、ほとんど、喋らなかった。
ただ、ニーナが、しゃがんで「リル」と呼ぶと、振り向いた。
リルが、彼女の名前だった。
誰がつけたのか、ニーナがつけたのか、もう、本人も、忘れているらしい。
リルは、診療所の中を、小さな歩幅で、ちょこちょこと、歩いた。
包帯交換の補助、湯を運ぶ手伝い、患者の頭の上のタオルを替える、そういう仕事を、ニーナの真似をして、覚えていた。
たまに、ニーナの背中を見上げて、口を、ほんの少し、開けた。
何かを言いたそうだった。
だが、結局、何も、言わなかった。
俺は、リルが、ニーナに何かを言いたい時、ニーナはたいてい走っていて、聞いてあげる時間がなかったことに、気付いた。
ニーナも、たぶん、気付いていた。
気付いていたが、走るのを、止められなかった。
走らないと、回らない。
走らないと、回らないが、走っていると、聞けない。
町を回している娘の、一番、見たくない種類の、隙、だった。




