第二部 診療所のニーナと、消える子供たちの話 ⑤ 〜消える子供〜
そして、翌日の朝。
リルが、いなかった。
寝台が、空だった。
布団の上に、リルが昨日抱いていた小さな布の人形が、落ちていた。
人形は、温かくなかった。
夜明け前から、すでに、いなかった、ということだ。
ニーナが、最初に気付いた。
最初は、トイレかな、井戸端かな、と思った。
だが、リルは、戻ってこなかった。
小さな村だ。すぐに、いないと、分かる。
ニーナは、走った。
村中を走った。
井戸、広場、教会、宿屋、河原、子供たちが遊ぶ空き地、村の入り口の門、納屋、麦畑の畔。
リルは、どこにも、いなかった。
俺とリューリックも、探した。
手分けして、村の外れも、見た。
昼を過ぎる頃、ニーナは、診療所の戸の前に、立っていた。
呼吸が、荒かった。
俺は、初めて、ニーナの早口を聞かない時間を、持った。
「ニーナ」
「……」
「自警団には」
「言った」
「で?」
「『難民の子だ、もう一度はぐれたんだろう』って」
「……それだけか」
「それだけ」
ニーナは、診療所の戸を、拳で、一度、叩いた。
それから、もう一度。
それから、三度。
四度目で、拳が、血を、流した。
「ニーナ」
「私、ね」
「うん」
「父さんが死んだ時、ね、誰も助けてくれなかったの。村の誰も。私一人で、父さんを埋めた。八歳の時」
「うん」
「だから、私、決めたの。誰かが困った時、私は走る、って」
「うん」
「でも、走ってても、リルは、消えるの」
「……」
「走るのが、足りないのかな」
「足りないとは、思わないけどな」
「じゃあ、何が、足りないの」
俺は、答えなかった。
答えを、知らなかったわけじゃない。
答えは、知っていた。
ニーナの「走る」では、戦えない相手がいる、という答えだ。
でも、その答えを、ここで、ニーナに、言うわけには、いかなかった。
ニーナは、座り込んだ。
俺は、ニーナの隣に、しゃがんだ。
血の出ている拳を、手ぬぐいで、巻いた。
俺の手当ては、雑だった。
雑だったが、巻き方は、ニーナが教えてくれた、正確な巻き方だった。
ニーナは、それを、見ていた。
何も、言わなかった。
俺は、自分の中で、計算が、始まるのを、感じた。
通報したら、自警団が動かない。
動かないなら、自分で動く。
自分で動けば、村に、敵を作る。
敵を作れば、長居はできない。
長居できないなら、ニーナとは、すぐに、別れる。
別れる、というのが、ちょっと、引っかかった。
引っかかったのが、自分でも、不思議だった。
──また、同じ計算だ。
──結局、俺は、こういう男だ。
◇
「ニーナ」
「……」
「リルを探す。今夜中に」
「あんたが?」
「俺と、もう一人」
「もう一人?」
「家臣だ」
ニーナの動きが、止まった。
「……いま、何って?」
「……聞き間違いだ」
「聞き間違いなんてしないから」
「ニーナ、医者の娘って、耳がいいんだな」
「だから、話を逸らさないで」
「……」
「……あんた、本当に、何者」
「ただの傭兵だ」
「……二度目もそれかい」
──いや、二度目はあんたじゃない。
俺は、それは、言わなかった。
ニーナの目は、もう、半分ほど、納得している目だった。
医者の娘の、患者の容態を見極める時の目だった。
彼女は、患者だけじゃなくて、人間の正体も、容態として、見極められる種類の娘だ、ということが、分かった。
俺は、ちょっとだけ、嫌な汗を、かいた。
◇
その夜、俺は、リューリックと、村を歩いた。
その日、ニーナと俺がリルを村中で探している間、リューリックは、別行動だった。
彼は、朝、宿屋の親父と長話し、昼には井戸端で老婆たちの噂話に加わり、教会では聖職者と立ち話をし、夕方には村を時々通る行商人と、すれ違いざまに、二言三言の世間話を、丁寧に、重ねていた。
傭兵にも、家臣にも、本来そんな仕事は、要らない。
だがリューリックは、自分にしかできない手順を、自分にしかできない速度で、こなしていた。
「殿下、村の構造を見てきました」
「うん」
「ここ三ヶ月で消えた子供、確認できる範囲で、七人」
「七人?」
「ほとんどが、難民の子。身寄りのない子です」
「……自警団は何をしている」
「『戻ってくるのを待ってる』そうです」
「ふざけてるな」
「ふざけているか、噛んでいるか、です」
「自警団の頭、誰だ」
「グウェン、という男です。村で一番大きい家に住んでいます。表向きは村を守る男、裏では──」
「裏では?」
「月に一度、旅商人と長時間話し込む」
「……」
「明日、その旅商人が、村を発ちます。月例の出立日です」
「荷馬車?」
「四輪の、大きな荷馬車。布で覆っています」
「……お前、ずいぶん早く調べたな」
「殿下が惚れている間に、私は仕事をしておりました」
「……」
「殿下が走り回るより、私が歩き回る方が、たいてい、早いのです」
俺は黙った。
正論だった。
ちなみに、俺が走り回るより、ニーナが走り回る方も、たいてい、早かった。
ニーナのことは、リューリックには、言わなかった。
言ったら、たぶん、家令の家系の副業の本義に、追加項目が、また、増える。
◇
家に戻る道で、俺はもう一度、自分に、計算を、やり直させた。
リルを探す。
旅商人を尾ける。
荷馬車を襲う。
リルを取り戻す。
グウェンを暴く。
村を出る。
──全部、一晩で、やるしかない。
俺の肩は、まだ、完全には、閉じていない。
だが、まあ、いつものことだ。
いつもじゃない部分は、ニーナの太腿の温度が、まだ、鼻先に、残っていることだ。
残っていることが、ちょっと、計算を、邪魔した。
邪魔したが、計算は、やり直した。
「リューリック」
「はい」
「いつものやつ、いくぞ」
「……またですか」
「またなんだ」
「殿下、肩はもちますか」
「もたせる」
「ニーナさんに、また、縫っていただく予定で?」
「……うるさい」
「縫う前に、太腿の話、お聞きしたいですな」
「お前、見てたな!」
「家令の家系の副業の本義として、現場を見ずに支援はできません」
「……お前の本義、どこまで現場ご出陣なんだ」
「全方位でございます」
リューリックは、目を細めた。
落胆と諦観と、ほんのわずかな安堵が、入り混じった、いつもの顔。
主君が生き残ろうとしている、という事実への、安堵だ。
たぶん。




