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第十四部 商人テオと、揺れる荷台の話 ④ 灰柳の分岐


 昼前、最初の関所があった。


 グランデル帝国軍の小さな検問所だ。


 木の柵。


 土嚢。


 槍を持った兵が四人。


 書類を見る下士官が一人。


 退屈と疑いが半分ずつ混ざった顔をしている。


 商隊は慣れていた。


 テオが先頭へ行き、書類を出す。


 ブリエン薬草商隊の通行許可。


 グランデル帝国軍野戦病院向け納品控え。


 空荷ではない証明。


 次の納品先。


 紙が何枚も出る。


 紙は剣より軽い。


 だが、関所では紙の方が強い。


 下士官は書類をめくり、荷台を見た。


「怪我人がいるな」


 テオが笑う。


「壊れ物です」


「何の壊れ物だ」


「退院直後の傭兵。南方療養地へ」


 下士官が眉を寄せた。


「南方療養地?」


 俺は荷台の中で目を閉じた。


 来た。


 この雑な地名が、いよいよ試される時が来た。


 テオは、当然のように答えた。


「軍病院からの退院証にそうあります。戦線周辺で長居させるより、南の比較的穏やかな地域で療養させる方が、再搬送の手間が減る」


「見せろ」


 リューリックが退院証を渡す。


 下士官が読む。


 公式欄。


 署名。


 行先。


 余白。


 そこで、少しだけ目が止まった。


「痛み申告可能。無理をすると悪化」


「読むな」


 俺は思わず言った。


 下士官が荷台を覗いた。


「元気そうだな」


「口だけだ」


 テオとリューリックが同時に言った。


「お前ら、そこで合うな」


 下士官は、少しだけ笑いを堪えた顔になった。


 退屈な検問所で、退院直後の口だけ元気な壊れ物は、たぶん小さな娯楽だったのだろう。


「長時間止めると悪化するんだな」


 下士官が言った。


「はい」


 リューリックが即答した。


「悪化すると、軍病院へ戻す必要が生じます」


「それは面倒だ」


「私どもも面倒でございます」


「通れ」


 関所は抜けた。


 エルゼの余白が、ここでも効いた。


 俺の痛みが、通行理由になった。


 情けない。


 だが、強い。


 紙に書かれた痛みは、時々、剣より役に立つ。


 俺は、また一つ嫌な学びを得た。



 ◇



 関所を抜けたあと、テオが荷台の横を歩きながら言った。


「良い退院証だ」


「何がだ」


「痛みが使える」


「俺を商材にするな」


「使えるものを使わない商人はいない」


「痛みまで売る気か」


「売らない。通す」


 テオは軽く言った。


「売るものと、通すものは違う」


「商人が言うと怪しいな」


「怪しいくらいでちょうどいい。正しすぎる商人は、だいたい嘘つきだ」


 テオは空を見た。


 雲が薄く流れている。


「ロド、南へ戻ったら、しばらく大きな道を避けろ」


「なぜ」


「軍も商人も、大きな道を使う。大きな道には、情報も集まる。君たちは、情報に乗ると目立つ」


「商人に言われると、説得力があるな」


「俺が情報を売る側だからな」


「売ったのか」


「今は売ってない」


「今は、か」


「先のことは値段次第だ」


 テオは笑った。


 信用できない。


 でも、嫌いではない。


 こういう男は、嘘をつく。


 ただし、嘘をつく時に、自分が嘘つきであることまで商品にする。


 面倒だ。


 だが、面白い。


「灰柳の分岐で降りろ」


 テオは続けた。


「そこから南西へ二日で小さな湯場がある。湯場と言っても、宿が二軒とぬるい湧き水だけだ。だが、傷には悪くない。そこからさらに南へ抜ければ、リンデン方面へ道が続く」


「ずいぶん親切だな」


「親切を売っている」


「料金は」


「後払い」


「高そうだ」


「たぶん」


 テオは、エルゼみたいに言った。


 俺は少し笑った。


 人の言葉は、旅をすると移る。


 エルゼの「たぶん」が、トルガウを出てもまだ荷台に残っている。


 そう思うと、少しだけ寂しくなった。


 寂しいと思ったことが、少し意外だった。


 俺は、病院を出る時、いつも逃げるように出ていた。


 今回は、少し違う。


 逃げたのではない。


 出された。


 そして、見送られた。


 その違いは、思ったより大きかった。



 ◇



 灰柳の分岐に着いたのは、翌日の昼だった。


 灰色の柳が一本、道の真ん中に立っている。


 古い木だ。


 幹がねじれ、半分枯れている。


 だが、枝の先には細い葉が残っていた。


 その木の下で、道が三つに分かれる。


 北東はトルガウ。


 東は商隊道。


 南西は、王国東部方面へ向かう細い道。


 俺たちは、そこで降りることになった。


 降りる、と言っても、俺はほぼ下ろされた。


 高価な壊れ物らしく、リューリックと商隊の若い荷役二人に支えられる。


 足は地面に着いた。


 七歩。


 いや、今日は八歩いけるかもしれない。


 そう思った瞬間、リューリックが言った。


「殿下、試さないでください」


「まだ何も言ってない」


「顔に八歩と書いてあります」


「読むな」


「エルゼ殿なら記録しておられます」


「お前もするな」


 テオが馬車から降り、俺たちの前に立った。


 手には小さな封書。


「これを持っていけ」


「何だ」


「書付だ。灰柳の南西にある湯場宿『白湯鹿亭』の女将に見せろ。部屋が空いていれば、少し安くなる。空いていなければ、馬小屋が少し清潔になる」


「最後の条件が切ないな」


「現実的だろ」


「誰宛てだ」


「女将のヘルマ。俺に貸しがある」


「また女将か」


 リューリックが言った。


「女将は、世界の情報網でございます」


 テオが手を叩いた。


「分かっているじゃないか、サンドル」


「家令の家系の副業の本義でございます」


「商人の本義でもある」


「同意いたします」


「お前ら、女将を何だと思ってるんだ」


 二人は同時に答えなかった。


 答えないことで、たぶん敬意を示した。


 世界は、思ったより女将で動いている。


 俺はまた一つ学んだ。


 学びたくなかった。


「テオ」


「何だ」


「助かった」


 俺が言うと、テオは少しだけ目を丸くした。


「素直だな」


「傷が痛いからな」


「痛むと素直になるのか」


「最近そういうことになっている」


「良い病院にいたな」


「ああ」


 俺は、そう答えた。


 トルガウのグランデル帝国軍野戦病院。


 敵国の病院。


 痛いと言っていい場所。


 エルゼのいた場所。


 良い病院だったと言うには、あまりにも戦争の匂いがした。


 だが、悪い場所だったとも言えない。


 人間がいた。


 それだけで、場所は少し複雑になる。


「では、ロド・カナリ」


 テオが手を差し出した。


「南方療養地で死ぬなよ」


「療養地で死ぬ予定はない」


「君の場合、予定はあまり信用できない」


「否定できないのが嫌だ」


 俺は右手で握り返した。


 テオの手は、柔らかくない。


 商人の手だ。


 紙と硬貨と荷縄を知っている手。


「サンドル」


 テオはリューリックにも手を出した。


「次に会う時は、もう少し高く取る」


「こちらも、もう少し値切ります」


「良い」


「楽しみにしております」


 二人は握手した。


 短い。


 だが、商談の約束みたいな握手だった。


 テオは商隊へ戻った。


 馬車が動き出す。


 薬草の匂いが、少しずつ遠ざかる。


 ブリエン薬草商隊は東へ折れ、俺たちは南西の細い道に残った。


 道は狭い。


 でも、戦場の煙は少し薄い。


 俺は封書を革袋に入れようとして、リューリックに止められた。


「殿下、紙類は退院証と分けます」


「細かいな」


「エルゼ殿の退院証が濡れると困ります」


「俺の退院証なのに、エルゼのものみたいに言うな」


「作成者の手が残っておりますので」


「……そういうこと言うんだな、お前」


「業務上の所感でございます」


「便利だな、業務」


 リューリックは封書を別の油紙に包んだ。


 手つきが丁寧だった。


 エルゼの退院証を扱う時と、少し似ていた。


 俺は見ないふりをした。


 見ていたけど。



 ◇



 灰柳の分岐から南西へ進む道は、細く、静かだった。


 商隊の音が消えると、急に世界が小さくなった。


 馬車の車輪。


 リューリックの足音。


 遠くの鳥。


 俺の呼吸。


 それだけ。


 痛みはある。


 でも、トルガウを出た時より少しだけ、痛みの場所が分かる。


 左肩。


 脇腹。


 右膝。


 それから、胸の奥に少し。


 最後のは、まだ分類できない。


 エルゼなら何と書くだろう。


 リューリックなら、何も書かずに水を出すだろう。


 俺は、ゆっくり息を吐いた。


「痛いですか」


 リューリックが訊いた。


「少しな」


「休みますか」


「いや。次の木まで」


「承知しました」


 次の木。


 たったそれだけの目標。


 でも、今の俺にはちょうどよかった。


 国を取り戻す。


 妹を探す。


 帝国の闇を探る。


 そんな大きな言葉は、今の肩には重すぎる。


 まず、次の木まで。


 次に、白湯鹿亭まで。


 それから、リンデン方面へ。


 そうやって、小さく進む。


 エルゼが言った、今のことを増やす、というのは、たぶんこういうことだ。


 次の木の手前で、俺は一度止まった。


 息を整える。


 汗が背中に滲む。


 リューリックは何も言わない。


 言わないまま、俺の左側に立たない位置へ移る。


 倒れたら受けられる場所。


 でも、俺が倒れる前提ではない場所。


 絶妙に腹立たしく、絶妙にありがたい場所。


「リューリック」


「はい」


「テオは信用できるか」


「信用の種類によります」


「金は」


「信用できます。損得に忠実です」


「人は」


「まだ分かりません」


「道は」


「おそらく信用できます」


「書付は」


「使えます」


「便利な男だな」


「はい。便利な人間は、便利な分だけ、扱いを誤ると危険でございます」


「俺は?」


「不便な分だけ、扱いを誤ると危険でございます」


「どっちにしても危険か」


「はい」


 俺は笑った。


 痛い。


 でも、笑えた。


 次の木まで、あと少し。


 南方療養地は、まだどこにもない。


 だが、俺たちは南へ進んでいる。


 退院証の余白。


 テオの書付。


 エルゼの言葉。


 リューリックの半歩。


 その全部を荷物にして、俺は痛いまま、次の道へ向かった。



 ──第十四話 了


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