第十四部 商人テオと、揺れる荷台の話 ① 銀貨六枚の壊れ物
旅は、歩く者のものだと思っていた。
足で進む。
馬に乗る。
剣を腰に吊るし、街道を選び、宿を探し、夜になれば火を囲む。
それが旅だと思っていた。
だが、傷が深い時の旅は違う。
旅は、揺られるものになる。
荷台の板に背中を預け、車輪の音を聞き、傷口が開かないように息を浅くして、通り過ぎる空を眺める。
自分の足で進んでいるのではない。
誰かの馬。
誰かの荷台。
誰かの通行札。
誰かの商売。
その全部に乗せられて、自分だけが旅をしている顔をする。
それは、なかなか情けない。
だが、情けない旅にも、見えるものがある。
歩いている時には見えなかった、人の手の動き。
荷を積む順番。
商人が嘘をつく時の笑い方。
リューリックが俺を起こさないように話す時の声。
そして、痛いと言った後に、世界が少しだけ続くこと。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
今回の俺は、死にかけた後、荷物として運ばれた。
しかも、わりと高価な荷物扱いだった。
腹立たしいことに、それが一番安全だった。
◇
トルガウのグランデル帝国軍野戦病院を出て、最初に分かったことがある。
退院証は、痛みを減らしてくれない。
馬車が一度跳ねる。
左肩が悲鳴を上げる。
脇腹が遅れて文句を言う。
右膝が、俺も一応関係者だ、と主張する。
体中の痛みが会議を始める。
議長はもちろん左肩だ。
「痛い」
俺は、荷台の上で言った。
「はい」
リューリックが即答した。
「お前が返すのか」
「エルゼ殿より、役割変更を承っております」
「お前、真面目に引き継ぐな」
「殿下が痛みを申告された場合、否定せず受領する。必要に応じて水分、姿勢調整、休止提案を行う。以上、病棟記録係エルゼ殿よりの申し送りでございます」
「俺の痛みが業務化されている」
「以前よりは適切かと」
「以前は何だった」
「殿下が痛みを隠し、私が眉間で察する業務でございました」
「眉間で察するな」
「長年の経験です」
馬車がまた揺れた。
俺は歯を食いしばった。
痛い。
声に出そうか迷った。
迷った時点で、リューリックが水袋を差し出した。
「言わずとも可でございます」
「察するなと言ったばかりだ」
「今回は顔色でございます」
「お前、逃げ道が多いな」
「家令の家系の副業の本義として、退路の確保は重要でございます」
俺は水を飲んだ。
ぬるい。
革袋の匂いがする。
でも、喉を通るだけで、少しだけ体が今に戻った。
トルガウの裏門は、もう見えない。
エルゼは手を振らなかった。
記録板を胸に抱え、少しだけ頭を下げただけだった。
あれはたぶん、彼女なりの見送りだ。
手を振ると、少し別れが大きくなりすぎる。
記録係は、別れまで過剰にしない。
そのくせ、余白にはしっかり残す。
ずるい女だった。
「殿下」
「何だ」
「お顔が、少し柔らかくなっております」
「傷が痛いだけだ」
「左様で」
「その顔は何だ」
「エルゼ殿の記録が、想定より効果を発揮していると考えております」
「俺は薬の効き目か」
「副作用もございます」
「何だ」
「殿下が、少し素直になります」
「重篤だな」
「はい」
俺は笑った。
笑うと脇腹が痛い。
だが、痛いと分かっていても笑える時がある。
それも、エルゼに記録されそうで少し嫌だった。
◇
トルガウから南へ向かう街道は、最初の半日はまだグランデル帝国軍の影が濃かった。
道端には、補給標識が立つ。
矢印。
距離。
水場。
馬換え所。
負傷者移送路。
軍が作った道は、便利だ。
便利で、怖い。
人を早く運べる。
荷も早く運べる。
命令も早く届く。
そして、戦争も早く進む。
午後になると、軍の標識が少し減り、代わりに商人の目印が増えた。
木に結ばれた赤い紐。
石積みの上に置かれた割れ壺。
古い祠の横に彫られた小さな匙の印。
商隊が使う道標だ。
公の道ではない。
だが、荷を動かす者たちには、軍の地図より信頼されているらしい。
「この道でいいのか」
「はい。南方療養地へ向かう道でございます」
「その言い方、まだ続けるのか」
「退院証に記載されておりますので」
「南方療養地って、結局どこだ」
「殿下が南へ向かい、療養する場所です」
「つまり未定だな」
「柔軟と申します」
馬車の御者が、そこで少し笑った。
トルガウの宿屋が手配した中年の男だ。
口数は少ない。
だが、耳はよく動く。
「旦那方、その療養地ってのは、金を払えばある場所ですかい」
「なければ作る」
俺が答えると、御者は肩を揺らした。
「いい答えだ。商人向きですぜ」
「俺は傭兵だ」
「傭兵も商人も、売るもんが違うだけでさ」
「俺は何を売ってる」
「無茶」
リューリックが即答した。
「お前に聞いてない」
「しかし、正答かと」
御者が笑った。
笑い声が、乾いた街道に転がる。
トルガウを出てから、初めて戦場の匂いが少し薄くなった気がした。
完全には消えない。
荷台の下には血を吸った古い布が一枚残っているし、道の脇には折れた車輪が捨てられている。
だが、人が笑うと、その場所が少しだけ戦場ではなくなる。
それは、ニーナの橋でも、エルゼの病室でも同じだった。
笑いは戦争を終わらせない。
でも、戦争だけで世界が埋まるのを、少しだけ邪魔する。
俺は、そういう邪魔が好きだ。




