第十三部 病棟記録係エルゼと、退院証の余白の話 Another Side:エルゼ
裏門が閉じたあと、エルゼはしばらくその場に立っていた。
仕事は残っている。
退院後の寝台を整えなければならない。
血のついた布を分けなければならない。
次の患者の札を用意しなければならない。
病棟記録係の一日は、誰かが出ていったあとも続く。
それでも、少しだけ立っていた。
ロド・カナリ。
レオン。
殿下。
いくつも呼び名のある人だった。
呼び名が多い人は、たいてい荷物も多い。
エルゼは、そう思った。
そして、サンドル。
椅子を退ける人。
視線の間に半歩立つ人。
語らない名を、持つことを許された人。
彼もまた、名前より多くのものを持っていた。
エルゼは記録室へ戻った。
机の上には、退院証の控えが一枚残っている。
公式記録では、ロド・カナリは南方療養地へ向かったことになる。
少し曖昧で、少し具体的な場所。
サンドルが選び、エルゼが整え、アーノルト軍医が署名した行き先。
紙の上では、それで十分だった。
だが、自分の控えには、もう少しだけ書いておきたかった。
エルゼは、私的な小さな帳面を開いた。
公式記録ではない。
人に見せるためのものでもない。
ただ、忘れないための紙。
そこに書く。
ロド・カナリ。七歩。痛いと言えた。南へ。
少し間を置いて、もう一行。
サンドル。椅子を退ける人。沈む人の椅子も減らせる。
書いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
何を書いているのだろう。
病棟記録係の仕事ではない。
でも、完全に仕事ではないとも言いきれない。
病棟では、仕事と気持ちの境目が、よく滲む。
粥を配る。
水を替える。
痛いと聞く。
名前を書く。
余白を残す。
そこに少しだけ、祈りのようなものが混じる。
それを全部切り離していたら、たぶん、人は病棟にいられない。
廊下から声がした。
「エルゼ、次の患者札」
「はい」
エルゼは帳面を閉じた。
公式記録を上に置き、私的な帳面をその下へ滑り込ませる。
何を見せて、何を見せないか。
それも、記録係の仕事だった。
病室へ戻る前に、彼女は廊下の椅子を一つ直した。
脚が、ほんの少しだけ通路に出ていたからだ。
人が通れる。
担架も通れる。
水桶を持った看護助手も、たぶん転ばない。
エルゼは、少しだけ笑った。
椅子を退ける人の仕事は、思ったより、病棟に残る。
そして彼女は、次の患者札を取りに歩いた。
痛いと言っていい場所は、今日も誰かを迎える。
──Another Side 了




