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第十三部 病棟記録係エルゼと、退院証の余白の話 ④ 裏門

 出発の日の朝、俺は七歩歩いた。


 昨日より二歩多い。


 たった二歩。


 だが、エルゼは真面目に記録した。


「七歩。休止一回。顔色、昨日より良」


「七歩で良になるのか」


「昨日が悪かったので」


「褒め方が低い」


「でも、良いです」


「……そうか」


 良い。


 それだけの言葉が、少しだけ嬉しい。


 悔しい。


 俺は本当に弱っている。


 弱っている時、人は小さな言葉で生き延びる。


 それを俺は、あまり知らなかった。


 アーノルト軍医は俺の肩を見て、渋い顔をした。


「馬車だ」


「歩ける」


「馬車だ」


「少しは歩ける」


「少しだけ歩け。基本は馬車だ」


「妥協したな」


「お前が聞かんからだ」


 アーノルト軍医は退院証に署名した。


 字が太い。


 力任せではない。


 だが、逃げられない字だった。


「再開創したら、戻れ」


「ここへ?」


「近ければな。遠ければ、まともな医者に見せろ」


「まともじゃない医者だったら?」


「お前の口が回るなら逃げろ」


「俺の口は役に立つな」


「足よりはな」


 軍医にまで言われた。


 ひどい。


 だが、たぶん事実だ。


 エルゼは退院証を折り、油紙に包んだ。


 その包み方が、妙に丁寧だった。


「濡らさないでください」


「努力する」


「実行してください」


「お前まで」


「みなさんが言うなら、そろそろ覚えてください」


「はい」


 俺は退院証を受け取った。


 紙は軽い。


 なのに、革袋に入れると、また少し重くなった。


 セラの包帯。


 ニーナの薬。


 マレーナの薬草袋。


 ヴェロニカの止血粉。


 ハンナの馬蹄鉄。


 リータの白い布。


 ヴィクトルの活字。


 死者の名。


 そして、エルゼの退院証。


 俺の懐は、また旅の薬棚で、記録庫で、小さな墓地で、約束の束になっていく。


「ロドさん」


 エルゼが言った。


「痛い時は、痛いと言ってください」


「ああ」


「言える場所がなければ、紙に書いてもいいです」


「俺が?」


「はい」


「字が汚いぞ」


「読める人に読ませてください」


 エルゼの視線が、ほんの一瞬だけリューリックへ向いた。


 リューリックは、何も言わず一礼した。


「承知いたしました」


「お前が読むのか」


「殿下の字は、長年の業務範囲でございます」


「俺の字まで業務か」


「はい。時折、解読に分類されます」


「ひどい」


 エルゼが笑った。


 その笑顔は、明るすぎない。


 病棟の朝にちょうどいいくらいの明るさだった。


 リューリックは、少しだけ表情を柔らかくした。


 ほんの少し。


 たぶん、本人も気づいていない。


 俺は気づいた。


 気づいたので、言わないでおいた。


 こういうことは、言うと壊れる。


 俺も少しは学んでいる。


「サンドルさん」


 エルゼが言った。


「はい」


「ロドさんが痛いと言わなかったら」


「言わせます」


「無理をしようとしたら」


「止めます」


「沈みそうになったら」


 リューリックは、少しだけ間を置いた。


「椅子を減らします」


 エルゼは、嬉しそうに笑った。


「はい。それがいいと思います」


 何だこの会話。


 俺の療養方針を、俺抜きで詩にするな。


 でも、悪くなかった。


 悪くないどころか、かなり良かった。


「お前ら、俺を病棟家具みたいに扱うな」


「家具はもっと素直です」


 エルゼ。


「家具は勝手に戦場へ行きません」


 リューリック。


 二人同時に刺してきた。


 相性が良すぎる。


 俺は、傷より別の場所が痛くなった。



 ◇



 俺たちは、病院の裏門から出た。


 表門は軍監の目が多い。


 裏門なら、荷馬車や洗濯物の出入りに紛れられる。


 エルゼは、そこまで見送ってくれた。


 仕事があるのに、と言うと、彼女は「退院も仕事です」と言った。


 軽い。


 でも、その軽さの中に、見送りの寂しさが少しだけ混じっていた。


 ヤンも来た。


 足を引きずりながら、門の脇に立っている。


「レオン」


「何だ」


「生きます」


「そうしろ」


「礼は、利子付きであとで返します」


「高くつくぞ」


「はい」


 ヤンは笑った。


 震えはまだある。


 だが、足は動いていた。


 それでいい。


 ハインリッヒは来なかった。


 代わりに、本の栞が一枚、エルゼから渡された。


「ホルマン少尉からです」


「何だ、これ」


「本の栞です。裏に、補給路で使える帝国語の短い文が書いてあります」


「なぜ俺に」


「本人は、外国人傭兵が帝国語を誤って使うと帝国の品位が下がる、と言っていました」


「面倒くさい善意だな」


「はい」


 俺は栞を受け取った。


 面倒くさい。


 だが、捨てる気にはなれなかった。


 ボリスからは、何もなかった。


 ただ、病室の窓から、木片を持った手が一度だけ上がった。


 それで十分だった。


「エルゼ」


「はい」


「また会えるか」


 言ってから、少し驚いた。


 俺は、彼女に惚れたわけではない。


 たぶん。


 たぶんであってくれ。


 だが、また会いたいとは思った。


 それは恋ではなく、痛いと言っていい場所を、もう一度見たいという気持ちだった。


 エルゼは少し考えた。


「ロドさんがまた死にかければ、どこかの病棟で会えるかもしれません」


「縁起が悪い」


「でも、可能性は高いです」


「否定できない自分が嫌だ」


「できれば、死にかける少し前に来てください」


「みんなそれを言う」


「みんな正しいんです」


 エルゼは、今度はリューリックを見た。


「サンドルさん」


「はい」


「退院証の余白、足りなくなったら、裏を使ってください」


「承知いたしました」


「でも、公式記録に出す前に、少し考えてください」


「何を」


「書くことで守れるか、書かないことで守れるか」


 リューリックは、静かに頭を下げた。


「覚えておきます」


「私も、椅子を減らすこと、覚えておきます」


「過分でございます」


「過分じゃありません。たぶん、必要です」


 その言葉は、もう二人の間の合図みたいになっていた。


 俺は少しだけ面白くない。


 だが、かなり良い。


 そう思った。


 エルゼは最後に、俺の革袋を見た。


「重そうですね」


「重い」


「でも、少し整理されました」


「そう見えるか」


「はい。痛いものに、少し場所ができました」


「場所か」


「はい」


 俺は革袋を叩いた。


 中で、紙がかすかに鳴った。


 退院証。


 治った証ではない。


 痛いまま次へ行くための紙。


 俺はそれを持って、裏門を出た。


 馬車が待っている。


 リューリックが先に荷を積み、俺はゆっくり乗った。


 七歩の男が馬車に乗るのは、なかなか情けない。


 だが、今日はそれでいい。


 七歩歩けた。


 明日は八歩かもしれない。


 南方療養地。


 どこにあるのか分からない場所へ、俺たちは向かう。


 馬車が動き出す。


 車輪が泥を噛む。


 病院の裏門が遠ざかる。


 エルゼは、門のところで手を振らなかった。


 代わりに、記録板を胸元に抱えたまま、少しだけ頭を下げた。


 リューリックも、馬車の上から小さく一礼した。


 たぶん、二人だけに分かる角度だった。


 俺には分かった。


 分かったことにしておく。


 馬車の揺れが肩に響く。


 痛い。


「痛い」


 俺は声に出した。


 リューリックが、すぐにこちらを見た。


「はい」


「お前が返すのか」


「エルゼ殿より、役割変更を承っております」


「そうか」


「痛みの程度は」


「腹立つくらい」


「記録しておきます」


「するな」


「私的に」


「するな」


 俺は笑った。


 笑うと痛い。


 だが、痛いと言った。


 言っても、馬車は進む。


 それでいい。


 俺たちは南へ向かった。


 次の町まで半日。


 次の安全地帯まで数日。


 王国方面へ抜けるには、もっとかかる。


 だが、今はまず、七歩の先へ行く。


 名前はまだ語らない。


 傷もまだ治らない。


 国もまだ戻らない。


 それでも、退院証の余白には、次の一行を書く場所がある。


 俺は痛いまま、その余白を持って旅に戻った。



 ──第十三話 了


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