表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

78/268

第十三部 病棟記録係エルゼと、退院証の余白の話 ③ 余白の写し

 その夜、エルゼとリューリックは、退院証の写しを作っていた。


 公式用。


 軍医控え。


 病棟控え。


 本人携帯用。


 本人携帯用だけ、紙が少し丈夫だった。


 旅先で濡れても破れにくい紙だという。


 俺は病室からその作業を見ていた。


 本当は寝ていろと言われた。


 寝ていた。


 ただ、目を開けていただけだ。


 リューリックは立ったまま、紙の順番を見ている。


 エルゼは座って、文字を書く。


 ときどき、二人の会話が聞こえた。


「サンドルさん、こちらの写し、先に乾かします」


「はい。窓際は避けましょう。夜露が入ります」


「では、棚の二段目に」


「三段目の方がよろしいかと。二段目は朝に薬品箱が入ります」


「……本当に見ていますね」


「職業病でございます」


「助かります」


「こちらこそ」


 短いやり取り。


 ただ、それだけ。


 だが、その短さが気持ちいい。


 無駄がない。


 無駄がないのに、冷たくない。


 エルゼは、ふと筆を止めた。


「サンドルさん」


「はい」


「ロドさんは、退院したがっています」


「はい」


「でも、出るのが怖いようにも見えます」


 俺は、寝台の上で息を止めた。


 この女。


 なぜ見る。


 なぜそんなところを見る。


 リューリックは、少しだけ黙った。


「外に出れば、動かねばなりません」


「はい」


「動けば、考えずに済みます」


「でも、傷は痛みます」


「はい」


「止まると、考えてしまいます」


「はい」


「どちらも痛いんですね」


「その通りでございます」


 エルゼは、しばらく筆を持ったまま黙った。


「退院証って、残酷ですね」


「なぜでしょう」


「出ていっていい、と書くからです」


「はい」


「本当は、まだ痛いのに」


 リューリックは答えなかった。


 その沈黙が、少し長かった。


 エルゼは、リューリックを見た。


「サンドルさん」


「はい」


「あなたは、ロドさんが出ていくのを止めたいですか」


 痛いところを突く。


 俺ではなく、リューリックの痛いところを。


 リューリックは、相変わらず表情を変えない。


 だが、俺には分かる。


 あいつは、今、傷口を押された。


「止めたいと思うことは、あります」


 リューリックは答えた。


「でも、止めないんですね」


「止めるべき時は、止めます」


「今回は」


「行かねば、別の危険が増えます」


「軍監ですか」


「それも一つでございます」


「他にも?」


「止まりすぎると、殿下はご自身の中へ沈みます」


 殿下。


 その呼び方を、リューリックは小さく言った。


 エルゼは、その名を記録しなかった。


 ただ、聞いた。


「沈むと、どうなりますか」


「笑います」


「笑うんですか」


「はい。いつもより軽く」


 エルゼは、少しだけ眉を寄せた。


「それは、良くない笑いですね」


「はい」


「分かりました」


「何をでしょう」


「退院証に、書くことを」


 エルゼは、本人携帯用の退院証の余白に、また一行足した。


 長期静養より、短距離移動を挟む療養が望ましい。


「おい」


 俺は寝台から声を出した。


「聞こえてたぞ」


 エルゼが振り返る。


「起きていたんですね」


「寝ていた。目と耳だけ起きてた」


「それは起きています」


「俺が沈むとか、勝手に書くな」


「沈まないための記録です」


「俺は沈まない」


「では、浮いてください」


「浮く?」


「はい。短距離ずつ」


 リューリックが、静かに言った。


「たいへん良い方針かと」


「お前まで」


「沈没より、浮上でございます」


「船扱いするな」


 エルゼが笑った。


 リューリックも、ほんの少しだけ目元を緩めた。


 俺は、二人を見て、少しだけ諦めた。


 この退院証は、俺のものだ。


 だが、俺一人で作っているわけではない。


 俺の痛みを、軍医が書く。


 エルゼが余白にする。


 リューリックが行き先を整える。


 俺は文句を言う。


 それで、紙が一枚できあがる。


 人間が次へ行くには、案外、多くの手が必要なのかもしれない。



 ◇



 出発前日の昼、ボリスの移送が決まった。


 グランデル帝国軍の捕虜収容所へ送られるらしい。


 脚の傷は、まだ完全ではない。


 だが、軍の都合は、傷の都合より早いことがある。


 ボリスは文句を言わなかった。


 荷物も少ない。


 毛布一枚。


 古い木の小片。


 それだけだった。


「それは何だ」


 俺が訊くと、ボリスは木片を見た。


「村の戸口だ」


「戸口?」


「家が焼けた時、これだけ残った」


「……そうか」


「名前の代わりだ」


 彼は木片を握った。


 それ以上は言わない。


 村の名も、家族の名も、言わない。


 言えば、壊れるものがあるのだろう。


 俺は、分かる気がした。


 分かる、などと軽々しく言うのは失礼かもしれない。


 でも、少なくとも、分からないふりはできなかった。


「生きろよ」


 俺が言うと、ボリスは笑った。


「捕虜に言う言葉か」


「俺は言葉の使い方が雑なんだ」


「知っている」


「なら許せ」


「半分な」


 ニーナみたいな返しをされた。


 少し腹が立つ。


 少し嬉しい。


 ハインリッヒが、病室の入口でボリスを見ていた。


「モロー」


「何だ、銅像少尉」


「その呼び方はやめろ」


「では、帝国少尉」


「それでいい」


「つまらん男だな」


 ハインリッヒは少しだけ眉を寄せた。


 それから、革袋から小さな包みを出した。


「干し肉だ」


 ボリスは目を細めた。


「毒か」


「帝国軍士官は、病室で捕虜に毒を盛らない」


「戦場なら?」


「質問が多い」


「答えが弱い」


 ボリスは干し肉を受け取った。


 礼は言わなかった。


 ハインリッヒも、礼を待たなかった。


 ただ、本を抱え直した。


 その顔は、少しだけ不機嫌だった。


 不機嫌なまま、少しだけ人間だった。


 エルゼがその様子を見て、記録板には何も書かなかった。


 書かない方がいいこともある。


 病室の余白には、そういうものが溜まっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ