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第十三部 病棟記録係エルゼと、退院証の余白の話 ② 退院の条件

 昼前、ヤンが歩行訓練に来た。


 俺より少し若い脚で、俺より少し不安そうに歩く。


 足を引きずるたびに、顔をしかめる。


 しかめたあと、周囲を見て、顔を戻そうとする。


 初戦を終えた兵士は、痛みよりも、痛がっているところを見られることを怖がる。


 その気持ちは分かる。


 分かるが、分かるからこそ腹が立つ。


「ヤン」


 俺は寝台から声をかけた。


「はい」


「顔をしかめろ」


「えっ」


「痛いなら、ちゃんと痛そうにしろ。中途半端に我慢すると、見ている側が不安になる」


「でも、兵士が」


「兵士が痛がるのは普通だ。痛くないふりをして倒れる奴の方が迷惑だ」


 ヤンは困った顔をした。


 エルゼが横から静かに足した。


「痛みを隠す人は、看護する側に余計な仕事を増やします」


「そうなのですか」


「はい。探す手間が増えます」


 リューリックが、廊下で水桶を持っていた。


「殿下も長年、周囲の仕事を増やしてまいりました」


「お前、通りすがりに刺すな」


「水桶のついででございます」


「ついでで主君を刺す家令がいるか」


「ここに」


 ヤンが笑った。


 笑ったせいで、足の痛みが少し緩んだのか、次の一歩はさっきより自然だった。


 エルゼがそれを見て、記録板に小さく書いた。


「笑うと一歩伸びることがあります」


「そんな記録もするのか」


「使えそうなので」


「何に」


「明日の訓練に」


 ヤンは照れくさそうに目を伏せた。


 その様子を、ハインリッヒが本の上から見ていた。


 彼は何も言わない。


 でも、昨日より少し目が柔らかい。


 ボリスは寝台で天井を見たまま言った。


「帝国兵は、笑うと規則違反か」


 ハインリッヒが本を閉じずに答える。


「規則にはない」


「じゃあ笑え」


「命令されて笑うものではない」


「帝国の得意分野だろう。命令するのは」


「捕虜の悪口は、今日も調子が良いな」


「脚以外はな」


 病室に、小さな笑いが落ちた。


 誰も大声では笑わない。


 傷に響くからだ。


 だが、小さな笑いでも、病室の空気は少し動く。


 空気が動くと、痛みの匂いだけではなくなる。


 俺は、そういう病室を見たことがあまりなかった。


 昔の俺は、病室を通過する場所だと思っていた。


 怪我をして、縫われ、寝て、逃げる。


 それだけの場所。


 だが、ここには人間がいる。


 それぞれ痛くて、それぞれ国が違って、それぞれ言えない名前を持っている。


 そして、エルゼがその全員の間を、記録板を抱えて歩いている。


 彼女は主役ではない。


 剣も持たない。


 命令もしない。


 だが、彼女がいないと、この部屋の痛みは、たぶんもっと硬くなる。



 ◇



 午後、グランデル帝国軍のヴァルター軍監から正式な退院条件が来た。


 退院というより、移動許可条件だった。


 ロド・カナリ。


 退院は軍医判断。


 移動時、行先申告。


 帝国軍管理区域内での長期滞在不可。


 再聴取の可能性あり。


 つまり、出ていけ。


 ただし、どこへ行くか言え。


 さらに、必要なら呼び戻す。


 という、かなり面倒な紙だった。


「自由になった気がしない」


 俺が言うと、エルゼは紙を見ながら頷いた。


「自由ではありません。移動可能です」


「違うのか」


「かなり違います」


「今日は違いが多い日だな」


「病棟は、違いでできています」


 リューリックは紙を受け取り、隅々まで目を通した。


 目の動きが早い。


 途中で一度、止まる。


「行先申告が必要でございます」


「ああ」


「どこへ向かうか、明記する必要があります」


「正直に書ける場所がないな」


「はい」


 俺たちは、オストマルクの深部へこれ以上進むには、傷が重すぎる。


 かといって、帝国管理区域に長居すれば、身元を掘られる。


 イタリカ側へ戻るには、カミラ周辺の件がきな臭い。


 南へ抜ける。


 王国方面へ戻る。


 それが一番現実的だった。


 だが、正直に「王国方面」と書けば、帝国軍の紙としては目立つ。


 リューリックが言った。


「南方療養地、と書きましょう」


「雑じゃないか」


「雑ですが、嘘ではございません」


「どこだよ、南方療養地」


「殿下が南へ行き、療養すれば、そこが南方療養地でございます」


「力技だな」


「地理は時に、目的で決まります」


 エルゼが、紙を見ながら少し笑った。


「南方療養地。悪くないです」


「悪くないのか」


「軍の紙は、具体的すぎると追われます。曖昧すぎると疑われます。南方療養地は、少し曖昧で、少し具体的です」


「お前まで力技を褒めるのか」


「力を入れる場所が良いです」


 リューリックが、ほんの少しだけ目を伏せた。


「恐縮です」


 まただ。


 この二人は、変なところで通じる。


 俺は寝台の上で、少しだけ悔しくなった。


「エルゼ」


「はい」


「俺の行き先を南方療養地にする女は、お前が初めてだ」


「光栄です」


「光栄なのか」


「たぶん」


 エルゼは、退院証の下書きを始めた。


 ロド・カナリ。


 退院見込み、二日後。


 移動方法、馬車推奨。


 長距離騎乗不可。


 左腕使用制限。


 脇腹再開創注意。


 行先、南方療養地。


 そして余白に、彼女は小さく書いた。


 痛み申告可能。無理をすると悪化。


「それ、書く必要あるか」


「あります」


「誰に向けてだ」


「次にロドさんを見る人です」


「そんなやついるか」


「います」


 エルゼは、迷わず言った。


「旅をする人には、次に見る人が必要です」


 その言葉は、少しだけ胸に残った。


 次に見る人。


 セラ。


 ニーナ。


 マレーナ。


 ヴェロニカ。


 ハンナ。


 リータ。


 カミラ。


 エルゼ。


 俺は、ずいぶん多くの人に見られてきた。


 逃げているつもりで、見られている。


 隠しているつもりで、書かれている。


 死にかけているつもりで、生きていることを確認されている。


 そう考えると、少しだけ腹が立つ。


 少しだけ、ありがたい。


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