表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

76/268

第十三部 病棟記録係エルゼと、退院証の余白の話 ① 歩けない傭兵

 退院証というものを、俺はあまり信用していない。


 あれは、治った証ではない。


 病院から出してもよい、というだけの紙だ。


 歩ける。


 飯が食える。


 熱が下がった。


 傷口が閉じた。


 死ぬ可能性が、昨日より少し下がった。


 それらをまとめて、退院可、と書く。


 ずいぶん雑な魔法だと思う。


 だが、紙は強い。


 退院証があれば、門を通れる。


 通行札があれば、関所を抜けられる。


 紹介状があれば、知らない町の宿で粥が出る。


 そして、誰かが余白に一行を書けば、その紙は、ただの紙より少しだけ人間に近づく。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ロド・カナリ。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。


 今回、俺は退院証の意味を知った。


 それは、治った証ではない。


 まだ痛いまま、次へ行ってよいと、誰かが責任を半分持ってくれる証だった。



 ◇



 トルガウのグランデル帝国軍野戦病院での三日目の朝、俺は歩行訓練を命じられた。


 命じたのはアーノルト軍医で、実行監督はエルゼだった。


 リューリックは病室の入口に立っていた。


 顔は静かだが、明らかに信用していない。


 信用されない理由はある。


 昨日の夜、俺は水差しを取ろうとして寝台から半分落ちた。


 その前は、毛布を直そうとして脇腹を押さえた。


 そのさらに前は、痛み止めが効いているうちに腕が動くか試そうとして、アーノルト軍医に「馬鹿は縫えん」と言われた。


 つまり、俺には実績がある。


 悪い意味で。


「ロドさん、まず座ります」


 エルゼが言った。


「もう座っている」


「座れているのと、立つ前に正しく座れているのは違います」


「座り方にも正解があるのか」


「あります。間違えると、立つ前に痛みます」


「厳しい世界だな、椅子」


「椅子は悪くありません。使う人が悪いことが多いです」


「椅子にまで責任転嫁を許さないのか」


「病棟では、椅子も大事です」


 リューリックが、入口で静かに頷いた。


「同感でございます」


「お前は黙っていろ。椅子仲間みたいな顔をするな」


「椅子は、正しく置けば人を支えます。誤って置けば、人を転ばせます」


「急に名言にするな」


 エルゼが、そこで少しだけ笑った。


「では、支える側にいてください、サンドルさん」


「承知いたしました」


「いや、待て。俺の歩行訓練なのに、二人が組むな」


「組まないと、ロドさんが転びます」


「転ばない」


 俺はそう言って立ち上がろうとした。


 左肩に痛みが走った。


 脇腹も引きつった。


 視界が、ほんの少し白くなる。


 膝が笑う。


 俺は、ほぼ立つ前に寝台へ戻った。


 沈黙。


「……今のは、試験だ」


「不合格です」


 エルゼが言った。


「即答か」


「即答できるくらい不合格です」


 リューリックが、たいへん真面目な顔で言った。


「殿下、椅子以前の問題でございます」


「お前まで」


「立つ意志と立てる肉体は、別会計です」


「会計にするな」


 エルゼは、俺の右側に立った。


 リューリックは左側に立たない。


 左肩の傷に触れないためだ。


 代わりに、少し後ろ、倒れた時に受けられる位置へ回る。


 何も言わない。


 でも、位置が正しい。


 エルゼがそれを見て、ほんの少しだけ頷いた。


 リューリックも、ほんのわずかに顎を引く。


 まただ。


 言葉がないのに、こいつらは噛み合っている。


 腹が立つ。


 歩く前から負けた気がする。


「ロドさん、右手はここ」


「肩は?」


「左肩は、ないものとして扱います」


「俺の肩を消すな」


「今だけです」


「俺の肩、今だけ不在か」


「はい。左肩は欠席です」


「軽いな」


「欠席理由は重いです」


 俺は笑いそうになった。


 笑うと脇腹が痛いので、やめた。


 エルゼは軽い。


 だが、軽さで痛みを消すのではない。


 痛みがあるまま、笑える形に少しだけ置き直す。


 その技術は、薬より静かに効く。


「立ちます。息を止めないでください」


「分かった」


「痛かったら言ってください」


「痛い」


「まだ立っていません」


「予告だ」


「予告疼痛ですね」


「そんな分類あるのか」


「今作りました」


 リューリックが低く言った。


「エルゼ殿」


「はい」


「予告疼痛は、今後も有用な分類かと存じます」


「採用します」


「採用するな!」


 立った。


 今度は、立てた。


 足の裏が床にある。


 右手は寝台の端。


 左肩は欠席。


 脇腹は出席して騒いでいる。


 視界は、少し揺れた。


 でも、倒れない。


 エルゼは支えすぎない。


 リューリックも支えすぎない。


 俺が自分で立っていると錯覚できるぎりぎりのところで、二人とも手を出さない。


 それが、少しありがたくて、少し腹立たしい。


「一歩」


 エルゼが言った。


「一歩だけです」


「子ども扱いだな」


「赤ん坊はもっと素直です」


「俺は赤ん坊以下か」


「今のところ、反抗心だけは上です」


「勝ってるならいい」


「そこは勝たなくていいです」


 一歩出した。


 右足。


 床板が、ぎし、と鳴る。


 病室の空気が、少しだけ遠くなった。


 たった一歩。


 傭兵なら、戦場で何百歩も走る。


 元王子なら、壇上へ何十歩も歩く。


 逃亡者なら、夜の山道を何千歩も進む。


 それなのに、今は一歩が遠い。


 体が、俺のものではないみたいだった。


「痛い」


「はい」


 エルゼが言った。


「でも、立っています」


 その言葉で、少しだけ息が戻った。


 痛い。


 でも、立っている。


 両方同時にあっていい。


 それを、俺はこの病院で少しずつ覚え始めていた。



 ◇



 歩行訓練のあと、俺は完全に疲れた。


 たった五歩。


 五歩で、体の中の水を全部使い切った気がした。


 寝台に戻ると、汗が背中に貼りついている。


 エルゼが額の汗を拭いた。


 拭き方が実務的で、遠慮がない。


 なのに、どこか柔らかい。


「五歩です」


「歩いたな」


「歩きました」


「退院できるか」


「できません」


「なぜだ。歩いたぞ」


「歩けることと、旅ができることは違います」


「また違うのか」


「違います。寝台から戸口まで五歩。トルガウから次の村まで、だいたい半日。揺れる荷馬車ならもっと痛みます」


「現実を数字にするな」


「数字にしないと、ロドさんは都合よく忘れます」


「俺への理解が早い」


「記録係ですので」


 エルゼは、水を差し出した。


 俺は右手で受け取る。


 こぼさなかった。


「こぼさなかったぞ」


「はい。昨日より良いです」


「お前、俺を褒める基準が低くないか」


「低いところから始めるのも、大事です」


「低いところにいる自覚はあるが、言われるとつらい」


「つらいですね」


「肯定するな」


「否定しても、つらいものはつらいです」


 この女は、本当に厄介だ。


 慰めない。


 だが、見捨てない。


 励まさない。


 だが、そこにいる。


 レオン・ヴァン・リュカリオンとして生きていた頃、俺の周りには、俺を立たせようとする人間が多かった。


 王子だから立て。


 兵の前だから立て。


 父の子だから立て。


 国のために立て。


 その言葉は正しかった。


 たぶん、今でも正しい。


 だが、エルゼは違う。


 立てないなら、立てないと書く。


 痛いなら、痛いと書く。


 五歩なら、五歩と書く。


 その上で、明日は六歩にする。


 それだけだ。


 それだけなのに、俺は少し楽だった。


「ロドさん」


「何だ」


「退院したいですか」


「したい」


「なぜ」


「寝ていると、考える」


「何を」


「いろいろだ」


「いろいろ、は記録しにくいです」


「記録するな」


「では、聞くだけにします」


 俺は天井を見た。


 梁の節が、昔の地図の湖みたいに見える。


 リュカリオンの地図を思い出す。


 王都。


 砦。


 川。


 山道。


 妹。


 父。


 燃える門。


 鉱山の暗さ。


 リューリックの手。


 言いたくないものが、次々と喉の奥に来る。


「寝ていると、昔のことが来る」


 エルゼは、すぐには答えなかった。


 記録板を持っていない手で、椀の位置を直した。


 たぶん、考えている。


 何を言えばいいかではなく、何を言わない方がいいかを。


「それは、追い払いますか」


「追い払えるのか」


「たまに、少しだけ」


「どうやって」


「今のことを増やします」


「今のこと」


「水を飲む。五歩歩く。粥をこぼさない。包帯を替える。痛いと言う。そういう小さい今を増やすと、昔が少しだけ座る場所を失います」


「昔を追い出すんじゃなくて、椅子を減らすのか」


「はい。サンドルさん式です」


 俺は思わず笑った。


 肩が痛い。


「お前ら、病棟の椅子で思想を作るな」


「便利なので」


「便利か」


「はい」


 俺は水を飲んだ。


 今のことを増やす。


 それは、案外、悪くない考えだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ