第十三部 病棟記録係エルゼと、退院証の余白の話 ① 歩けない傭兵
退院証というものを、俺はあまり信用していない。
あれは、治った証ではない。
病院から出してもよい、というだけの紙だ。
歩ける。
飯が食える。
熱が下がった。
傷口が閉じた。
死ぬ可能性が、昨日より少し下がった。
それらをまとめて、退院可、と書く。
ずいぶん雑な魔法だと思う。
だが、紙は強い。
退院証があれば、門を通れる。
通行札があれば、関所を抜けられる。
紹介状があれば、知らない町の宿で粥が出る。
そして、誰かが余白に一行を書けば、その紙は、ただの紙より少しだけ人間に近づく。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
今回、俺は退院証の意味を知った。
それは、治った証ではない。
まだ痛いまま、次へ行ってよいと、誰かが責任を半分持ってくれる証だった。
◇
トルガウのグランデル帝国軍野戦病院での三日目の朝、俺は歩行訓練を命じられた。
命じたのはアーノルト軍医で、実行監督はエルゼだった。
リューリックは病室の入口に立っていた。
顔は静かだが、明らかに信用していない。
信用されない理由はある。
昨日の夜、俺は水差しを取ろうとして寝台から半分落ちた。
その前は、毛布を直そうとして脇腹を押さえた。
そのさらに前は、痛み止めが効いているうちに腕が動くか試そうとして、アーノルト軍医に「馬鹿は縫えん」と言われた。
つまり、俺には実績がある。
悪い意味で。
「ロドさん、まず座ります」
エルゼが言った。
「もう座っている」
「座れているのと、立つ前に正しく座れているのは違います」
「座り方にも正解があるのか」
「あります。間違えると、立つ前に痛みます」
「厳しい世界だな、椅子」
「椅子は悪くありません。使う人が悪いことが多いです」
「椅子にまで責任転嫁を許さないのか」
「病棟では、椅子も大事です」
リューリックが、入口で静かに頷いた。
「同感でございます」
「お前は黙っていろ。椅子仲間みたいな顔をするな」
「椅子は、正しく置けば人を支えます。誤って置けば、人を転ばせます」
「急に名言にするな」
エルゼが、そこで少しだけ笑った。
「では、支える側にいてください、サンドルさん」
「承知いたしました」
「いや、待て。俺の歩行訓練なのに、二人が組むな」
「組まないと、ロドさんが転びます」
「転ばない」
俺はそう言って立ち上がろうとした。
左肩に痛みが走った。
脇腹も引きつった。
視界が、ほんの少し白くなる。
膝が笑う。
俺は、ほぼ立つ前に寝台へ戻った。
沈黙。
「……今のは、試験だ」
「不合格です」
エルゼが言った。
「即答か」
「即答できるくらい不合格です」
リューリックが、たいへん真面目な顔で言った。
「殿下、椅子以前の問題でございます」
「お前まで」
「立つ意志と立てる肉体は、別会計です」
「会計にするな」
エルゼは、俺の右側に立った。
リューリックは左側に立たない。
左肩の傷に触れないためだ。
代わりに、少し後ろ、倒れた時に受けられる位置へ回る。
何も言わない。
でも、位置が正しい。
エルゼがそれを見て、ほんの少しだけ頷いた。
リューリックも、ほんのわずかに顎を引く。
まただ。
言葉がないのに、こいつらは噛み合っている。
腹が立つ。
歩く前から負けた気がする。
「ロドさん、右手はここ」
「肩は?」
「左肩は、ないものとして扱います」
「俺の肩を消すな」
「今だけです」
「俺の肩、今だけ不在か」
「はい。左肩は欠席です」
「軽いな」
「欠席理由は重いです」
俺は笑いそうになった。
笑うと脇腹が痛いので、やめた。
エルゼは軽い。
だが、軽さで痛みを消すのではない。
痛みがあるまま、笑える形に少しだけ置き直す。
その技術は、薬より静かに効く。
「立ちます。息を止めないでください」
「分かった」
「痛かったら言ってください」
「痛い」
「まだ立っていません」
「予告だ」
「予告疼痛ですね」
「そんな分類あるのか」
「今作りました」
リューリックが低く言った。
「エルゼ殿」
「はい」
「予告疼痛は、今後も有用な分類かと存じます」
「採用します」
「採用するな!」
立った。
今度は、立てた。
足の裏が床にある。
右手は寝台の端。
左肩は欠席。
脇腹は出席して騒いでいる。
視界は、少し揺れた。
でも、倒れない。
エルゼは支えすぎない。
リューリックも支えすぎない。
俺が自分で立っていると錯覚できるぎりぎりのところで、二人とも手を出さない。
それが、少しありがたくて、少し腹立たしい。
「一歩」
エルゼが言った。
「一歩だけです」
「子ども扱いだな」
「赤ん坊はもっと素直です」
「俺は赤ん坊以下か」
「今のところ、反抗心だけは上です」
「勝ってるならいい」
「そこは勝たなくていいです」
一歩出した。
右足。
床板が、ぎし、と鳴る。
病室の空気が、少しだけ遠くなった。
たった一歩。
傭兵なら、戦場で何百歩も走る。
元王子なら、壇上へ何十歩も歩く。
逃亡者なら、夜の山道を何千歩も進む。
それなのに、今は一歩が遠い。
体が、俺のものではないみたいだった。
「痛い」
「はい」
エルゼが言った。
「でも、立っています」
その言葉で、少しだけ息が戻った。
痛い。
でも、立っている。
両方同時にあっていい。
それを、俺はこの病院で少しずつ覚え始めていた。
◇
歩行訓練のあと、俺は完全に疲れた。
たった五歩。
五歩で、体の中の水を全部使い切った気がした。
寝台に戻ると、汗が背中に貼りついている。
エルゼが額の汗を拭いた。
拭き方が実務的で、遠慮がない。
なのに、どこか柔らかい。
「五歩です」
「歩いたな」
「歩きました」
「退院できるか」
「できません」
「なぜだ。歩いたぞ」
「歩けることと、旅ができることは違います」
「また違うのか」
「違います。寝台から戸口まで五歩。トルガウから次の村まで、だいたい半日。揺れる荷馬車ならもっと痛みます」
「現実を数字にするな」
「数字にしないと、ロドさんは都合よく忘れます」
「俺への理解が早い」
「記録係ですので」
エルゼは、水を差し出した。
俺は右手で受け取る。
こぼさなかった。
「こぼさなかったぞ」
「はい。昨日より良いです」
「お前、俺を褒める基準が低くないか」
「低いところから始めるのも、大事です」
「低いところにいる自覚はあるが、言われるとつらい」
「つらいですね」
「肯定するな」
「否定しても、つらいものはつらいです」
この女は、本当に厄介だ。
慰めない。
だが、見捨てない。
励まさない。
だが、そこにいる。
レオン・ヴァン・リュカリオンとして生きていた頃、俺の周りには、俺を立たせようとする人間が多かった。
王子だから立て。
兵の前だから立て。
父の子だから立て。
国のために立て。
その言葉は正しかった。
たぶん、今でも正しい。
だが、エルゼは違う。
立てないなら、立てないと書く。
痛いなら、痛いと書く。
五歩なら、五歩と書く。
その上で、明日は六歩にする。
それだけだ。
それだけなのに、俺は少し楽だった。
「ロドさん」
「何だ」
「退院したいですか」
「したい」
「なぜ」
「寝ていると、考える」
「何を」
「いろいろだ」
「いろいろ、は記録しにくいです」
「記録するな」
「では、聞くだけにします」
俺は天井を見た。
梁の節が、昔の地図の湖みたいに見える。
リュカリオンの地図を思い出す。
王都。
砦。
川。
山道。
妹。
父。
燃える門。
鉱山の暗さ。
リューリックの手。
言いたくないものが、次々と喉の奥に来る。
「寝ていると、昔のことが来る」
エルゼは、すぐには答えなかった。
記録板を持っていない手で、椀の位置を直した。
たぶん、考えている。
何を言えばいいかではなく、何を言わない方がいいかを。
「それは、追い払いますか」
「追い払えるのか」
「たまに、少しだけ」
「どうやって」
「今のことを増やします」
「今のこと」
「水を飲む。五歩歩く。粥をこぼさない。包帯を替える。痛いと言う。そういう小さい今を増やすと、昔が少しだけ座る場所を失います」
「昔を追い出すんじゃなくて、椅子を減らすのか」
「はい。サンドルさん式です」
俺は思わず笑った。
肩が痛い。
「お前ら、病棟の椅子で思想を作るな」
「便利なので」
「便利か」
「はい」
俺は水を飲んだ。
今のことを増やす。
それは、案外、悪くない考えだった。




