第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ⑥ 〜桶を直す夜〜
──Another Side リューリック──
夜、リューリックは病棟の外に出た。
トルガウの空は曇っていた。
星は少ない。
軍病院の裏手には、空き樽と洗濯桶と、折れた担架が積まれている。
誰かが使い終えたもの。
誰かを運び終えたもの。
誰かを運べなかったもの。
物は、黙っている。
黙っているものを見るのは、リューリックの仕事だった。
殿下は、置いていいぞ、と言った。
痛みのせいだろう。
病棟の空気のせいでもある。
あの方は、痛みと柔らかさに挟まれると、時々、普段なら言わないことを言う。
そういう時ほど、聞き流してはいけない。
しかし、すべて拾ってもいけない。
主君の弱音は、扱いを誤ると、本人を傷つける。
剣より難しい。
リューリックは、桶の位置を少し直した。
通路に出ていたからだ。
直してから、自分で少しだけ笑いそうになった。
病院に来てから、椅子と桶ばかり直している。
だが、それで人が一人通れるなら、直す意味はある。
「眠れないんですか」
背後から声がした。
エルゼだった。
手に小さな洗濯籠を持っている。
夜でも、仕事は減らないらしい。
「見回りでございます」
「家令さんの見回りは、病棟の外まで来るんですね」
「主君が病棟におりますので」
「うちの病棟、少し安全になった気がします」
「私め一人で変わるほど、病棟は軽くないでしょう」
「でも、桶は直りました」
エルゼは、直された桶を見て笑った。
「助かります。夜に誰かが蹴ると、たいてい水がこぼれて、朝に私が怒られます」
「怒られるのですか」
「少しだけ」
「あなたが?」
「はい。私も怒られます」
エルゼは、当たり前のように言った。
リューリックは、その当たり前が少し意外だった。
彼女は怒らない女だ。
だが、怒られない女ではない。
当然のことなのに、少し遅れて理解した。
「エルゼ殿」
「はい」
「本日は、助けられました」
「私もです」
「あなたが?」
「はい。サンドルさんが、軍監の視線の間に立ってくれました」
「立っただけでございます」
「立つ場所を選ぶのは、立つだけではありません」
リューリックは、返答に困った。
褒められることには慣れている。
評価されることにも慣れている。
だが、見ていた場所を正確に言われることには、慣れていなかった。
「病棟では」
エルゼは続けた。
「大声を出す人より、正しい場所に立つ人の方が、助かる時があります」
「家でも、似たようなものでございます」
「家」
エルゼが、その言葉を繰り返した。
リューリックは、自分が少し不用意だったことに気づいた。
家。
彼にとっての家は、もうない。
それでも、口から出た。
「比喩でございます」
「はい」
エルゼは、それ以上聞かなかった。
聞かないことが、少しありがたかった。
「記録しない方がいい言葉ですね」
「はい」
「でも、覚えておいてもいいですか」
昼間と同じ言葉だった。
リューリックは、夜の空を一度見た。
星は少ない。
だが、ないわけではない。
「過分でございます」
「過分じゃありません。たぶん、必要です」
エルゼは、洗濯籠を持ち直した。
「ロドさん、痛いと言えるようになりましたね」
「はい」
「サンドルさんも、何か言えるようになるといいですね」
「私は、十分に申し上げております」
「業務連絡以外で」
リューリックは黙った。
エルゼは少しだけ笑った。
「冗談です。半分くらい」
「残り半分は」
「記録しません」
彼女はそう言って、病棟へ戻っていった。
軽い足音だった。
リューリックは、しばらくその背中を見送った。
恋ではない。
そのような、粗い言葉で片づけるものではない。
ただ、彼女は見ている。
椅子の位置を。
桶の位置を。
患者札の余白を。
そして、語らない名の重さを、少しだけ。
それは、警戒すべきことだった。
同時に、少しだけ救われることでもあった。
リューリックは、病棟へ戻る前に、もう一度だけ桶の位置を確かめた。
通路は空いている。
人は通れる。
今夜は、それでよかった。
──Another Side 了
──第十二部 了




