第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ⑤ 〜置いていい〜
夜、病室に戻ったリューリックは、いつも通りだった。
椅子の位置を直し、俺の革袋を寝台の下から少し遠ざけ、水差しの残量を確認し、窓の隙間風を布で塞いだ。
完璧な家令。
完璧すぎて、腹が立つ。
「リューリック」
「何でございましょう」
「お前、重いか」
リューリックの手が止まった。
ほんの一瞬。
「何が、でございましょう」
「俺の名とか、国とか、荷物とか、そういう面倒なやつだ」
「殿下」
「今は病室だ。説教は短くしろ」
「では、短く」
彼は、俺の寝台の横に立った。
「重くなければ、落としております」
「そうか」
「はい」
「お前、本当に短く言うと刺すよな」
「長く申し上げると、さらに刺さります」
「やめておけ」
「承知しました」
それで終わった。
終わったはずだった。
だが、終わらなかった。
俺は、寝台の上で、天井を見たまま言った。
「リューリック」
「はい」
「いつか、置いていいぞ」
言ってから、自分で驚いた。
そんなことを言うつもりはなかった。
痛みのせいだ。
エルゼのせいだ。
この病室のせいだ。
痛いと言っていい場所は、余計なことまで言わせる。
リューリックは、長く黙った。
今度は、長い沈黙だった。
「殿下」
「何だ」
「私が置く時は、殿下がご自身で持てる時でございます」
「……」
「それまでは、業務でございます」
「業務か」
「はい」
「なら仕方ないな」
「仕方ございません」
俺は笑った。
肩が痛かった。
痛い。
でも、痛いと言わなかった。
今は言わなくてもよかった。
リューリックも、何も言わなかった。
ただ、水差しを俺の手が届く位置へ動かした。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
◇
翌朝、ヴァルター軍監の正式判断が出た。
ロド・カナリ。
外国人傭兵。
帝国補助部隊移送護衛中に負傷。
ヤン補助兵の救助行為確認。
身分称号疑義、確認不能。
継続監視不要。
ただし、退院時、移動先申告を要す。
つまり、完全に自由ではない。
だが、拘束はされない。
俺たちは、一つ縄を抜けた。
抜けた縄は、たいてい後で別の縄になる。
それは分かっている。
それでも、今日首が締まらなかったことには意味がある。
「良かったですね」
エルゼが言った。
「良かった、でいいのか」
「今日は」
「明日は?」
「明日の記録は、明日書きます」
「便利な生き方だな」
「今日を全部持つと、重すぎます」
エルゼは、俺の患者札を整えた。
余白には、もう新しい補記はない。
だが、白い余白そのものが、少しだけ違って見えた。
何も書かれていない場所。
まだ書かれていない場所。
どちらも、同じ白ではない。
「エルゼ」
「はい」
「お前、いい記録係だな」
「昨日、サンドルさんにも言われました」
「俺より先に言ったのか」
「はい」
「むかつくな」
「なぜですか」
「俺の感想を先に取るな、あいつ」
エルゼは、少しだけ笑った。
「では、レオンさんは別の感想をください」
「俺はロドだ」
「では、ロドさん」
「……ずるいな、お前」
「それは感想ですか」
「たぶん」
「記録しません」
「助かる」
エルゼは、患者札を棚に戻した。
その手つきが、丁寧だった。
人を棚に戻すのではなく、紙を棚に戻す。
でも、その紙の向こうにいる人間を雑にしない。
エルゼは、そういう女だった。
俺は、いつかこの女が困る日が来るような気がした。
記録を守る者は、いつか記録に追われる。
それは、たぶん避けられない。
その時、誰が彼女の前に半歩立つのか。
俺は、病室の隅で椅子を直しているリューリックを見た。
まあ、だいたい答えは見えている。
本人たちは、まだ知らない。
俺だけが知っている。
俺だけが知っていることがあるというのは、少し気分がいい。
たいてい、すぐに痛い目を見るが。
◇
退院は、まだ先だった。
少なくとも、俺が歩いてトルガウを出られるまでには数日かかる。
その間に、リューリックは移動先を考え、エルゼは記録を整え、アーノルト軍医は俺の肩を見て渋い顔をし、ヤンは少しずつ歩く練習をした。
ハインリッヒは本を読み、ボリスは天井を見ながら時々帝国の悪口を言った。
病室は、相変わらず痛みの匂いがした。
でも、初日より少しだけ、人間の匂いもした。
それはたぶん、誰かが痛いと言い、誰かがそれを聞き、誰かが書き、誰かが書かなかったからだ。
名前は、まだ語らない。
レオン・ヴァン・リュカリオン。
その名は、まだ俺の喉の奥にある。
リューリックの背中にもある。
革袋の中にも、たぶんある。
だが、今日だけは、語らないことで守れた。
いつか語る日が来るのかもしれない。
その時、俺はその名の重さに耐えられるだろうか。
分からない。
ただ、今は痛い。
そして、痛いと言える。
それだけで、少しだけ生きている気がした。
──第十二話 了




