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第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ⑤ 〜置いていい〜

 夜、病室に戻ったリューリックは、いつも通りだった。


 椅子の位置を直し、俺の革袋を寝台の下から少し遠ざけ、水差しの残量を確認し、窓の隙間風を布で塞いだ。


 完璧な家令。


 完璧すぎて、腹が立つ。


「リューリック」


「何でございましょう」


「お前、重いか」


 リューリックの手が止まった。


 ほんの一瞬。


「何が、でございましょう」


「俺の名とか、国とか、荷物とか、そういう面倒なやつだ」


「殿下」


「今は病室だ。説教は短くしろ」


「では、短く」


 彼は、俺の寝台の横に立った。


「重くなければ、落としております」


「そうか」


「はい」


「お前、本当に短く言うと刺すよな」


「長く申し上げると、さらに刺さります」


「やめておけ」


「承知しました」


 それで終わった。


 終わったはずだった。


 だが、終わらなかった。


 俺は、寝台の上で、天井を見たまま言った。


「リューリック」


「はい」


「いつか、置いていいぞ」


 言ってから、自分で驚いた。


 そんなことを言うつもりはなかった。


 痛みのせいだ。


 エルゼのせいだ。


 この病室のせいだ。


 痛いと言っていい場所は、余計なことまで言わせる。


 リューリックは、長く黙った。


 今度は、長い沈黙だった。


「殿下」


「何だ」


「私が置く時は、殿下がご自身で持てる時でございます」


「……」


「それまでは、業務でございます」


「業務か」


「はい」


「なら仕方ないな」


「仕方ございません」


 俺は笑った。


 肩が痛かった。


 痛い。


 でも、痛いと言わなかった。


 今は言わなくてもよかった。


 リューリックも、何も言わなかった。


 ただ、水差しを俺の手が届く位置へ動かした。


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。





 翌朝、ヴァルター軍監の正式判断が出た。


 ロド・カナリ。


 外国人傭兵。


 帝国補助部隊移送護衛中に負傷。


 ヤン補助兵の救助行為確認。


 身分称号疑義、確認不能。


 継続監視不要。


 ただし、退院時、移動先申告を要す。


 つまり、完全に自由ではない。


 だが、拘束はされない。


 俺たちは、一つ縄を抜けた。


 抜けた縄は、たいてい後で別の縄になる。


 それは分かっている。


 それでも、今日首が締まらなかったことには意味がある。


「良かったですね」


 エルゼが言った。


「良かった、でいいのか」


「今日は」


「明日は?」


「明日の記録は、明日書きます」


「便利な生き方だな」


「今日を全部持つと、重すぎます」


 エルゼは、俺の患者札を整えた。


 余白には、もう新しい補記はない。


 だが、白い余白そのものが、少しだけ違って見えた。


 何も書かれていない場所。


 まだ書かれていない場所。


 どちらも、同じ白ではない。


「エルゼ」


「はい」


「お前、いい記録係だな」


「昨日、サンドルさんにも言われました」


「俺より先に言ったのか」


「はい」


「むかつくな」


「なぜですか」


「俺の感想を先に取るな、あいつ」


 エルゼは、少しだけ笑った。


「では、レオンさんは別の感想をください」


「俺はロドだ」


「では、ロドさん」


「……ずるいな、お前」


「それは感想ですか」


「たぶん」


「記録しません」


「助かる」


 エルゼは、患者札を棚に戻した。


 その手つきが、丁寧だった。


 人を棚に戻すのではなく、紙を棚に戻す。


 でも、その紙の向こうにいる人間を雑にしない。


 エルゼは、そういう女だった。


 俺は、いつかこの女が困る日が来るような気がした。


 記録を守る者は、いつか記録に追われる。


 それは、たぶん避けられない。


 その時、誰が彼女の前に半歩立つのか。


 俺は、病室の隅で椅子を直しているリューリックを見た。


 まあ、だいたい答えは見えている。


 本人たちは、まだ知らない。


 俺だけが知っている。


 俺だけが知っていることがあるというのは、少し気分がいい。


 たいてい、すぐに痛い目を見るが。





 退院は、まだ先だった。


 少なくとも、俺が歩いてトルガウを出られるまでには数日かかる。


 その間に、リューリックは移動先を考え、エルゼは記録を整え、アーノルト軍医は俺の肩を見て渋い顔をし、ヤンは少しずつ歩く練習をした。


 ハインリッヒは本を読み、ボリスは天井を見ながら時々帝国の悪口を言った。


 病室は、相変わらず痛みの匂いがした。


 でも、初日より少しだけ、人間の匂いもした。


 それはたぶん、誰かが痛いと言い、誰かがそれを聞き、誰かが書き、誰かが書かなかったからだ。


 名前は、まだ語らない。


 レオン・ヴァン・リュカリオン。


 その名は、まだ俺の喉の奥にある。


 リューリックの背中にもある。


 革袋の中にも、たぶんある。


 だが、今日だけは、語らないことで守れた。


 いつか語る日が来るのかもしれない。


 その時、俺はその名の重さに耐えられるだろうか。


 分からない。


 ただ、今は痛い。


 そして、痛いと言える。


 それだけで、少しだけ生きている気がした。


 ──第十二話 了


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