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第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ④ 〜許された者〜

聴取が終わった後、俺は病室へ戻された。


 戻された、というより、半分運ばれた。


 俺は自分で歩くと言った。


 アーノルト軍医に却下された。


 エルゼにも却下された。


 リューリックには、言う前から肩に手を置かれた。


 主君の尊厳というものは、病院ではだいたい布団より軽い。


 病室へ戻ると、ボリスが待っていた。


「殿下、お帰り」


「お前、いないのに何で知ってる」


「廊下で笑いが聞こえた」


「笑うな」


「通称が多い男だな」


「増やすな」


 ハインリッヒは、あとから入ってきた。


 彼はいつものように本を持っている。


 だが、すぐには読まなかった。


「ヤンは、よく証言した」


「ああ」


「初戦で動けなかったことを言うのは、難しい」


「お前にもあったのか」


 ハインリッヒは、少しだけ黙った。


 その沈黙で、答えは分かった。


 帝国士官にも、初戦はある。


 当然だ。


 だが、俺は今までそれを想像していなかった。


 彼のような男は、最初から帝国の言葉で立っているものだと思っていた。


 そんなわけがない。


 誰だって、最初は震える。


 震えたことを忘れた人間だけが、他人の震えを笑う。


「私は、動いた」


 ハインリッヒは言った。


「だが、動いた先が間違っていた。味方の退路を塞いだ」


「最悪だな」


「最悪だった」


 彼は初めて、自分でそう認めた。


 ボリスが、少しだけ目を動かした。


「帝国士官にも、そういうことがあるのか」


「ある」


「なら、少しは人間だな」


「もともと人間だ」


「帝国の理想を話す時は、たまに銅像に見える」


「貴様は失礼だな」


「捕虜だからな。礼儀を減らしても、どうせ待遇はあまり変わらん」


 エルゼが水を替えながら言った。


「礼儀を減らすと、私の水差しの置き方が少し雑になります」


 ボリスが黙った。


「それは困る」


「では、少し礼儀を戻してください」


「……すまない、エルゼ」


「はい」


 病室が、少し笑った。


 重い話のあとに、こういう小さな笑いが来ると、空気が割れずに済む。


 エルゼは、その割れ目を見つけるのが上手い。


 ハインリッヒは本を開いた。


 ボリスは天井を見た。


 俺は痛み止めを少し飲まされ、リューリックは椅子の位置を直した。


 誰も完全には納得していない。


 それでも、同じ部屋にいられるくらいには、言葉が残った。





 夕方、エルゼが記録室で写しを作ることになった。


 軍監へ出す公式記録。


 軍医へ残す医療記録。


 病棟で使う処置記録。


 そして、患者の移送可否を判断する状態表。


 同じ出来事でも、書類によって名前が変わる。


 負傷。


 戦闘。


 処置。


 証言。


 移送。


 俺の傷は一つだ。


 だが、紙の上では、いくつもの顔を持つ。


 リューリックは、記録室の入口に立っていた。


 エルゼに頼まれたらしい。


 証言の時系列を整理するためだ。


 俺は病室から動けないので、また声だけが聞こえる。


「サンドルさん」


「はい」


「ヤンさんが『レオン』と呼んだ箇所は、公式にはどう扱うべきでしょう」


「個人間呼称が妥当かと」


「レオンという名に、意味はありますか」


 俺の心臓が、少しだけ嫌な音を立てた。


 リューリックはすぐには答えなかった。


 長い沈黙ではない。


 でも、俺には長く感じた。


「多い名でございます」


 リューリックが言った。


「多い名」


「はい。市場にも、傭兵にも、港にも、酒場にも、レオンはおります」


「そうですね」


「ですので、それ以上の意味を持たせぬ方が、書類として安全でございます」


「安全」


「名を重くしすぎると、紙が裂けます」


 エルゼは、少し黙った。


「サンドルさんは、名前を軽くするのが上手ですね」


「軽くせねば、運べない名もございます」


「ロドさんの名も?」


「便宜上は」


「便宜上」


 エルゼは、その言葉を繰り返した。


 責める声ではない。


 ただ、覚える声だった。


「分かりました。個人間呼称。正式名として扱わず」


「ありがとうございます」


「でも」


「はい」


「呼ばれた時のロドさん、少しだけ変な顔をしていました」


 俺は寝台の上で固まった。


 見られていた。


 この女、怒らないくせに、かなり見ている。


 リューリックも、わずかに間を置いた。


「傷が痛んだのでしょう」


「そういうことにしておきます」


「助かります」


「助けたわけではありません。記録しなかっただけです」


「それを助けると呼ぶ場合もございます」


 また沈黙。


 今度の沈黙は、少し柔らかかった。


「サンドルさん」


「はい」


「ロドさんの荷物、重いですね」


「はい」


「物の重さではなく」


「はい」


「あなたも、少し持っているんですか」


 リューリックは答えなかった。


 俺は、天井を見た。


 その問いは、やめてやれと思った。


 でも、少しだけ、聞きたいとも思った。


 俺は最低だ。


 自分の重さを持たせているくせに、それを持っているかと聞かれた時のリューリックの声を聞きたいと思った。


「私は」


 リューリックが言った。


「持つことを許された者でございます」


「許された?」


「はい」


「誰に」


「語らない名に、でございます」


 エルゼは、しばらく何も言わなかった。


 記録室の紙が、かすかに鳴った。


「それは、記録しない方がいい言葉ですね」


「はい」


「でも、覚えておいてもいいですか」


「過分でございます」


「過分じゃありません。たぶん、必要です」


 俺は目を閉じた。


 胸の奥が痛い。


 肩ではない。


 脇腹でもない。


 エルゼなら、きっとそれも「はい。痛いですね」と言うのだろう。


 言われたくなかった。


 言ってほしくもあった。


 人の心は、面倒だ。


 俺の心は、特に面倒だ。


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