第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ③ 〜多い名〜
次に、ヤンの証言が取られた。
少年は、椅子に座る前に一度立ち上がり、座れと言われてからまた座った。
手は膝の上。
指が硬い。
声も硬かった。
「襲撃時、何を見た」
ヴァルター軍監が訊く。
「石が落ちました。馬が跳ねました。矢が来ました」
「その後」
「私は、動けませんでした」
ヤンの声が、小さくなる。
その言葉は、彼自身の喉を傷つけながら出てきた。
エルゼが記録板に書く。
手は止まらない。
だが、表情は少しだけ柔らかい。
リューリックは、ヤンを見ない。
見ないことで、少年に余計な圧をかけない。
ハインリッヒは、まっすぐ見ている。
帝国士官として、証言を見届ける顔だ。
俺は、見た。
見てやるべきだと思った。
ヤンは、恥を言っている。
恥を言う時、誰かがちゃんと見ていないと、その恥はただの穴になる。
「ロド・カナリが、私を引きずりました」
「どこへ」
「馬車の下へ」
「その時、彼は敵へ背を向けたか」
「……はい」
「結果、斧を受けた」
「はい」
「なぜ、彼はそうした」
ヤンは黙った。
分からないのだろう。
俺にも分からない。
格好つけたかったのか。
昔の誰かに似ていたからか。
初戦の兵士を見捨てると、夢見が悪そうだったからか。
全部だ。
たぶん、全部で、どれでもない。
「分かりません」
ヤンは正直に言った。
「でも、私は、生きています」
その声は震えていた。
震えていたが、逃げなかった。
「私は、動けませんでした。でも、ロド、いえ、レオンは動きました」
俺は目を閉じたくなった。
レオン、と言った。
この場で。
だが、もう遅い。
ヴァルター軍監の目が細くなる。
「レオン?」
ヤンが青ざめた。
自分が何を言ったか、今気づいたのだ。
俺は笑った。
笑うしかなかった。
「おい、ヤン」
「す、すみません」
「俺の名前くらい覚えろ。ロドだ」
「でも、昨日、あなたが」
「俺は負傷すると名前が増えるんだ」
「増えるんですか」
「そういう病気だ」
ヤンは混乱した。
ヴァルター軍監は混乱しなかった。
リューリックが静かに口を開いた。
「レオンは、ロド・カナリの傭兵仲間内の呼称でございます」
「また通称か」
「はい」
「通称が多すぎる」
「この男は、女性医療者に叱られるたびに呼称が増えます」
「増えないわ!」
俺は思わず叫んだ。
肩が痛んだ。
「痛い」
「はい」
エルゼが即座に言った。
その上で、彼女は患者札の余白に書いた。
レオン。個人間呼称。傭兵名または愛称の可能性。正式名として確認できず。
「愛称ではない!」
「可能性です」
「可能性で俺を辱めるな」
「身元疑義を和らげるためです」
「ぐっ」
反論できなかった。
ハインリッヒが、本を持っていれば口元を隠しただろう顔をしていた。
ボリスがいないのが惜しい。
いや、いたら絶対笑われた。
やはりいなくていい。
ヴァルター軍監は、エルゼの記録を見た。
「愛称か」
「可能性です」
「便利な言葉だな」
「断定できない時のためにあります」
「断定を避けているようにも見える」
「誤断定を避けています」
エルゼは、軽かった。
でも、軽さの下に細い綱がある。
その綱を、リューリックが別の場所から支えている。
「ヤン」
ハインリッヒが静かに言った。
「続けろ。見たことだけでいい」
ヤンは、少し息を吸った。
「はい」
彼は続けた。
俺が彼を引きずったこと。
馬車の下へ押し込んだこと。
黒い上着の男が斧を振ったこと。
リューリックが男を止めたこと。
ヤン自身は、しばらく動けなかったこと。
最後まで言った。
言い終えた時、彼の顔は青かった。
だが、目だけは少し前よりましだった。
恥を言葉にした人間の目だ。
傷口を開いて、洗った目だった。
「証言は以上か」
軍監が訊く。
ヤンは頷いた。
「はい」
エルゼが書き終える。
それから、少しだけ余白を見た。
何かを書きたい顔をした。
だが、書かなかった。
俺は、その書かなかったところを見た。
書かないことにも、意味がある。
エルゼは、ヤンの恥を記録しすぎなかった。
事実は書いた。
でも、彼が固まった理由までは書かなかった。
その余白は、彼がこれから生きるための場所なのだろう。
記録係というのは、恐ろしい仕事だ。
書くことで人を残し、書きすぎないことで人を残す。
俺には、とてもできない。




