↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

72/548

第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ③ 〜多い名〜


 次に、ヤンの証言が取られた。


 少年は、椅子に座る前に一度立ち上がり、座れと言われてからまた座った。


 手は膝の上。


 指が硬い。


 声も硬かった。


「襲撃時、何を見た」


 ヴァルター軍監が訊く。


「石が落ちました。馬が跳ねました。矢が来ました」


「その後」


「私は、動けませんでした」


 ヤンの声が、小さくなる。


 その言葉は、彼自身の喉を傷つけながら出てきた。


 エルゼが記録板に書く。


 手は止まらない。


 だが、表情は少しだけ柔らかい。


 リューリックは、ヤンを見ない。


 見ないことで、少年に余計な圧をかけない。


 ハインリッヒは、まっすぐ見ている。


 帝国士官として、証言を見届ける顔だ。


 俺は、見た。


 見てやるべきだと思った。


 ヤンは、恥を言っている。


 恥を言う時、誰かがちゃんと見ていないと、その恥はただの穴になる。


「ロド・カナリが、私を引きずりました」


「どこへ」


「馬車の下へ」


「その時、彼は敵へ背を向けたか」


「……はい」


「結果、斧を受けた」


「はい」


「なぜ、彼はそうした」


 ヤンは黙った。


 分からないのだろう。


 俺にも分からない。


 格好つけたかったのか。


 昔の誰かに似ていたからか。


 初戦の兵士を見捨てると、夢見が悪そうだったからか。


 全部だ。


 たぶん、全部で、どれでもない。


「分かりません」


 ヤンは正直に言った。


「でも、私は、生きています」


 その声は震えていた。


 震えていたが、逃げなかった。


「私は、動けませんでした。でも、ロド、いえ、レオンは動きました」


 俺は目を閉じたくなった。


 レオン、と言った。


 この場で。


 だが、もう遅い。


 ヴァルター軍監の目が細くなる。


「レオン?」


 ヤンが青ざめた。


 自分が何を言ったか、今気づいたのだ。


 俺は笑った。


 笑うしかなかった。


「おい、ヤン」


「す、すみません」


「俺の名前くらい覚えろ。ロドだ」


「でも、昨日、あなたが」


「俺は負傷すると名前が増えるんだ」


「増えるんですか」


「そういう病気だ」


 ヤンは混乱した。


 ヴァルター軍監は混乱しなかった。


 リューリックが静かに口を開いた。


「レオンは、ロド・カナリの傭兵仲間内の呼称でございます」


「また通称か」


「はい」


「通称が多すぎる」


「この男は、女性医療者に叱られるたびに呼称が増えます」


「増えないわ!」


 俺は思わず叫んだ。


 肩が痛んだ。


「痛い」


「はい」


 エルゼが即座に言った。


 その上で、彼女は患者札の余白に書いた。


 レオン。個人間呼称。傭兵名または愛称の可能性。正式名として確認できず。


「愛称ではない!」


「可能性です」


「可能性で俺を辱めるな」


「身元疑義を和らげるためです」


「ぐっ」


 反論できなかった。


 ハインリッヒが、本を持っていれば口元を隠しただろう顔をしていた。


 ボリスがいないのが惜しい。


 いや、いたら絶対笑われた。


 やはりいなくていい。


 ヴァルター軍監は、エルゼの記録を見た。


「愛称か」


「可能性です」


「便利な言葉だな」


「断定できない時のためにあります」


「断定を避けているようにも見える」


「誤断定を避けています」


 エルゼは、軽かった。


 でも、軽さの下に細い綱がある。


 その綱を、リューリックが別の場所から支えている。


「ヤン」


 ハインリッヒが静かに言った。


「続けろ。見たことだけでいい」


 ヤンは、少し息を吸った。


「はい」


 彼は続けた。


 俺が彼を引きずったこと。


 馬車の下へ押し込んだこと。


 黒い上着の男が斧を振ったこと。


 リューリックが男を止めたこと。


 ヤン自身は、しばらく動けなかったこと。


 最後まで言った。


 言い終えた時、彼の顔は青かった。


 だが、目だけは少し前よりましだった。


 恥を言葉にした人間の目だ。


 傷口を開いて、洗った目だった。


「証言は以上か」


 軍監が訊く。


 ヤンは頷いた。


「はい」


 エルゼが書き終える。


 それから、少しだけ余白を見た。


 何かを書きたい顔をした。


 だが、書かなかった。


 俺は、その書かなかったところを見た。


 書かないことにも、意味がある。


 エルゼは、ヤンの恥を記録しすぎなかった。


 事実は書いた。


 でも、彼が固まった理由までは書かなかった。


 その余白は、彼がこれから生きるための場所なのだろう。


 記録係というのは、恐ろしい仕事だ。


 書くことで人を残し、書きすぎないことで人を残す。


 俺には、とてもできない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。