第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ② 〜商家の息子〜
正式聴取は、空き倉庫を使って行われた。
病棟の隣にある、薬草箱と古い寝台を置くための部屋だった。
床は掃かれているが、薬草の粉と木屑が隅に残っている。
窓は小さく、光は斜めにしか入らない。
壁には帝国軍の簡易地図。
トルガウ。
旧水車谷。
北西補給路。
赤い印がいくつも打たれている。
その印の数だけ、人が止まり、人が運ばれ、人が消えたのだろう。
俺は寝台ごとではなく、椅子に座らされた。
アーノルト軍医が許したのは、半刻だけ。
長くなるなら中止。
俺が顔色を悪くしたら中止。
俺が余計なことを言いすぎたら中止。
最後の条件だけ、誰が判定するのか分からない。
たぶん全員だ。
部屋には、軍監ヴァルター。
アーノルト軍医。
エルゼ。
リューリック。
ハインリッヒ。
ヤン。
それから、補助書記が一人いた。
ボリスは来なかった。
捕虜だからだ。
だが、病室に残った彼の乾いた笑いが、まだ俺の耳の奥にある。
「ロド・カナリ」
ヴァルター軍監が言った。
「昨日の続きだ」
「俺は今日もロド・カナリだ」
「それを確認するための場だ」
「確認しても、俺の肩は治らんぞ」
「肩の話ではない」
「俺には今、ほぼ肩の話しかない」
エルゼが記録板に何かを書いた。
「疼痛により応答やや散漫」
「おい」
「事実です」
「俺が馬鹿みたいだろ」
「馬鹿ではなく、痛い人です」
「微妙に助からない」
ハインリッヒが咳払いをした。
笑いを隠したのか、単に喉が乾いたのかは分からない。
ヤンは緊張していた。
手が膝の上で固まっている。
彼は、まだ自分が証言することに怯えている。
自分の言葉で誰かの運命が変わることを、初めて知った顔だ。
俺は、少しだけ椅子の背に体重を預けた。
左肩が痛む。
痛い。
言っていい場所だ。
そう思うと、逆に少し我慢できた。
「戦闘時、サンドルはお前を『殿下』と呼んだ」
軍監は、最初からそこへ来た。
「その呼称の由来を改めて確認する」
「昨日聞いただろ」
「昨日は聴取ではない」
「俺の恥を二度も掘るのか」
「必要だ」
「ひどい仕事だな、軍監」
「仕事だ」
ヴァルターは動じない。
こういう男は、軽口で削れない。
削れない石に頭をぶつけると、こちらの額が割れる。
つまり、俺の得意分野ではない。
俺は横を見た。
リューリックは、いつものように立っている。
顔は静か。
だが、指先だけがほんの少し、袖の端を押さえていた。
焦っている時の癖だ。
焦っているのに、顔には出さない。
こいつは、そういう男だ。
「通称でございます」
リューリックが答えた。
「傭兵間の通称。身分称号ではございません」
「誰がそう呼び始めた」
「私でございます」
「なぜ」
「この男が、たいへん手のかかるためです」
「具体的に」
「前に出る前は勇ましく、すぐに傷を負い、寝台の上では要求が多く、女性医療者に叱られ、にもかかわらず、再び前に出ようとします」
「おい」
「事実でございます」
「事実を並べるな。俺が本当に駄目な男みたいだろ」
「殿下」
「今その呼び方をするな」
「ロド様」
「もっとやめろ」
ヤンが小さく笑った。
緊張で固まった肩が、ほんの少しだけ下がる。
それを見て、リューリックの指先が袖から離れた。
ああ。
こいつ、今のやり取りでヤンの緊張も緩めたのか。
俺を貶めながら。
有能だ。
腹が立つほど有能だ。
エルゼも、それに気づいたらしい。
記録板に目を落としながら、口元だけが少し緩んだ。
ヴァルター軍監は、笑わない。
「傭兵間の通称にしては、特殊だ」
「はい。主に私が呼んでおります」
「では、お前の癖ではないか」
「その可能性はございます」
「なぜ癖になる」
リューリックは、そこで一拍だけ黙った。
ほんの一拍。
だが、その一拍が、俺の胸に刺さった。
彼は、俺を殿下と呼ぶ。
昔からそうだった。
国が落ち、俺が奴隷になり、傭兵に身を落とし、偽名を使い、便宜上ただの男になっても、リューリックは俺を殿下と呼ぶ。
ギャグとして流している。
本人も、それで押し通す。
だが、癖ではない。
彼にとって、それは、残った国そのものなのだ。
それを、ここで言えるはずがない。
リューリックは、語らない。
語らなければ、守れるものがある。
語らないことで、死ぬものもある。
彼はその両方を知っている。
「昔の職場の名残でございます」
リューリックは答えた。
「職場?」
「はい。前職にて、上役を大げさに呼ぶ習慣がございました」
「どこの職場だ」
「商家でございます」
「商家で、殿下と呼ぶのか」
「取引先の跡取り息子が、自分を殿下と呼ばせる趣味でございました」
俺は吹き出しそうになった。
肩が痛くて耐えた。
リューリック。
お前、よくそんな嘘を真顔で言えるな。
いや、嘘ではないのかもしれない。
どこかの商家に本当にそういう馬鹿息子がいたのかもしれない。
世界は広い。
俺みたいな馬鹿もいる。
「くだらん趣味だな」
ヴァルター軍監が言った。
「同感でございます」
リューリックは、まったく表情を変えずに答えた。
俺は心の中で抗議した。
俺を見て同感と言うな。
「エルゼ」
軍監が言った。
「記録」
「はい」
エルゼは静かに書いた。
同行者サンドルの呼称癖。
前職由来の可能性。
身分称号としての実質確認できず。
それから、余白に小さく一行を足した。
本人発言、疼痛により軽口多し。
「おい」
「ロドさんの発言傾向です」
「俺は疼痛がなくても軽口が多い」
「それは、今は書かないでおきます」
「書かなくていい」
エルゼは少しだけ笑った。
ヴァルター軍監は、その笑いを見た。
見たが、何も言わなかった。
たぶん、彼には理解できない種類の防御だった。
人を笑わせることで、記録の角を少しだけ丸くする。
エルゼとリューリックは、別々のやり方でそれをやっている。
俺は、寝台ではなく椅子の上で、二人に挟まれて助かっていた。
そのことが、少しだけ悔しかった。
俺は、誰かに助けられるのが下手だ。
死に損なうのは得意なのに、生きるために助けられるのは、どうにも下手だった




