表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/85

第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ① 〜朝の病棟〜


 朝の病棟は、夜よりも残酷だった。


 夜は、痛みが暗がりに溶ける。


 人の顔も、寝台の汚れも、包帯の赤も、少しだけごまかされる。


 朝は違う。


 薄い光が窓から入り、乾いた血を茶色く見せ、洗い残した床の泥を浮かび上がらせる。


 誰が夜中に眠れなかったか。


 誰の包帯がまた滲んだか。


 誰が水を飲まずに朝を迎えたか。


 全部、見えてしまう。


 俺は寝台の上で、左肩を動かさないように息をしていた。


 動かすと痛い。


 動かさなくても痛い。


 つまり、どうやっても痛い。


 エルゼは、そのことを当然のように記録した。


「疼痛、持続。昨日より軽減。ただし、起床時増悪」


「朝から俺を文字にするな」


「朝の状態は大事です」


「俺の朝はだいたい最悪だ」


「では、最悪の種類を分けます」


「やめろ。分類されると逃げ場がない」


「逃げ場を作るために分類することもあります」


 エルゼは記録板から目を上げずに言った。


 軽い。


 でも、軽いだけではない。


 彼女の言葉は、いつも布のように柔らかく見えて、芯に細い針が入っている。


 痛いところに触れる。


 ただし、ちゃんと布越しに触れる。


 それが彼女のやり方だった。


「今日は正式聴取です」


「知ってる」


「長く話すと、肩が痛みます」


「短く話すと、俺はだいたい疑われる」


「長く話しても、たぶん疑われます」


「朝から厳しいな」


「事実です」


「エルゼ」


「はい」


「お前、怒らないけど、わりと刺すよな」


「痛みの記録係ですから」


「そういうものか」


「たぶん」


 たぶん、で締める女だった。


 セラなら「そうです」と言う。


 ニーナなら「そういうものでしょ」と言う。


 ヴェロニカなら「痛ければ黙れ」と言う。


 カミラなら「発言を整理しろ」と言う。


 エルゼは「たぶん」と言う。


 たぶん、という言葉の中に、人間を逃がす隙間がある。


 俺は、その隙間が少し好きになり始めていた。


 かなり危ない兆候だ。


 俺は女に惚れやすい。


 だが、ここでエルゼに惚れるのは、何か違う気がした。


 いや、違うというより、俺の惚れる方向とは別の場所で、彼女は誰かの隣に立つ気がした。


 誰か。


 具体的には、朝から病室の隅で、椅子の脚の向きを直している家令である。


「リューリック」


「何でございましょう、殿下」


「お前、今、何をしている」


「椅子の脚が通路へ出ておりましたので、負傷者搬送の邪魔にならぬよう直しております」


「病院の人間か」


「病院の邪魔になる主君の家令でございます」


 エルゼが、記録板に何かを書きかけて、少しだけ止まった。


「今の、少し良い言い方ですね」


「記録しないでくれ」


「公式記録にはしません」


「私的にはするのか」


「たぶん」


 リューリックは、ほんの一瞬だけ黙った。


 それから、いつものように一礼した。


「過分なお取り扱いでございます」


「取り扱いというより、印象です」


「印象は、時に書類より長く残ります」


「記録係に言う言葉としては、少し困ります」


「失礼いたしました」


「いえ。困りましたけど、嫌ではありません」


 俺は寝台の上で、二人を見た。


 朝の病棟。


 血の匂い。


 軍監の聴取前。


 俺は肩が痛い。


 なのに、何だこの妙に良い会話は。


 俺抜きで、静かに何かが噛み合っている。


 腹が立つ。


 少し嬉しい。


 俺は自分の心が小さいのか、大きいのか、よく分からなくなった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ