第十二部 家令リューリックと、語らない名前の話 ① 〜朝の病棟〜
朝の病棟は、夜よりも残酷だった。
夜は、痛みが暗がりに溶ける。
人の顔も、寝台の汚れも、包帯の赤も、少しだけごまかされる。
朝は違う。
薄い光が窓から入り、乾いた血を茶色く見せ、洗い残した床の泥を浮かび上がらせる。
誰が夜中に眠れなかったか。
誰の包帯がまた滲んだか。
誰が水を飲まずに朝を迎えたか。
全部、見えてしまう。
俺は寝台の上で、左肩を動かさないように息をしていた。
動かすと痛い。
動かさなくても痛い。
つまり、どうやっても痛い。
エルゼは、そのことを当然のように記録した。
「疼痛、持続。昨日より軽減。ただし、起床時増悪」
「朝から俺を文字にするな」
「朝の状態は大事です」
「俺の朝はだいたい最悪だ」
「では、最悪の種類を分けます」
「やめろ。分類されると逃げ場がない」
「逃げ場を作るために分類することもあります」
エルゼは記録板から目を上げずに言った。
軽い。
でも、軽いだけではない。
彼女の言葉は、いつも布のように柔らかく見えて、芯に細い針が入っている。
痛いところに触れる。
ただし、ちゃんと布越しに触れる。
それが彼女のやり方だった。
「今日は正式聴取です」
「知ってる」
「長く話すと、肩が痛みます」
「短く話すと、俺はだいたい疑われる」
「長く話しても、たぶん疑われます」
「朝から厳しいな」
「事実です」
「エルゼ」
「はい」
「お前、怒らないけど、わりと刺すよな」
「痛みの記録係ですから」
「そういうものか」
「たぶん」
たぶん、で締める女だった。
セラなら「そうです」と言う。
ニーナなら「そういうものでしょ」と言う。
ヴェロニカなら「痛ければ黙れ」と言う。
カミラなら「発言を整理しろ」と言う。
エルゼは「たぶん」と言う。
たぶん、という言葉の中に、人間を逃がす隙間がある。
俺は、その隙間が少し好きになり始めていた。
かなり危ない兆候だ。
俺は女に惚れやすい。
だが、ここでエルゼに惚れるのは、何か違う気がした。
いや、違うというより、俺の惚れる方向とは別の場所で、彼女は誰かの隣に立つ気がした。
誰か。
具体的には、朝から病室の隅で、椅子の脚の向きを直している家令である。
「リューリック」
「何でございましょう、殿下」
「お前、今、何をしている」
「椅子の脚が通路へ出ておりましたので、負傷者搬送の邪魔にならぬよう直しております」
「病院の人間か」
「病院の邪魔になる主君の家令でございます」
エルゼが、記録板に何かを書きかけて、少しだけ止まった。
「今の、少し良い言い方ですね」
「記録しないでくれ」
「公式記録にはしません」
「私的にはするのか」
「たぶん」
リューリックは、ほんの一瞬だけ黙った。
それから、いつものように一礼した。
「過分なお取り扱いでございます」
「取り扱いというより、印象です」
「印象は、時に書類より長く残ります」
「記録係に言う言葉としては、少し困ります」
「失礼いたしました」
「いえ。困りましたけど、嫌ではありません」
俺は寝台の上で、二人を見た。
朝の病棟。
血の匂い。
軍監の聴取前。
俺は肩が痛い。
なのに、何だこの妙に良い会話は。
俺抜きで、静かに何かが噛み合っている。
腹が立つ。
少し嬉しい。
俺は自分の心が小さいのか、大きいのか、よく分からなくなった。




