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第十一部 病棟記録係エルゼと、書類の余白の話 ⑤ 〜ましな痛み〜

翌朝、正式聴取が始まる前に、エルゼが俺の患者札を書き直した。


 ロド・カナリ。


 左肩深創。


 脇腹浅創。


 意識清明。


 食事少量可。


 疼痛あり。


 長時間聴取不可。


 その下の余白に、小さく書かれている。


 同行者による呼称あり。


 傭兵間通称。


 身分称号にあらず。


「そんなに見ないでください」


 エルゼが言った。


「俺の命綱が文字になってる」


「命綱というほど強くありません」


「じゃあ何だ」


「ほどけにくい糸くらいです」


「十分だ」


 エルゼは、少しだけ笑った。


「痛みはどうですか」


「痛い」


「はい」


「昨日よりは、ましだ」


「それも書きます」


「何でも書くな」


「ましになったことも、書かないと分かりません」


「……そうか」


「はい」


 俺は、自分の痛みが昨日より少しだけましになったことを、初めてちゃんと認めた。


 痛みは消えない。


 でも、変わる。


 変わるなら、書ける。


 書けるなら、昨日と今日の間に、俺はちゃんといたことになる。


 変な理屈だ。


 でも、その変な理屈に少し救われた。


 軍靴の音が近づく。


 ヴァルター軍監が来る。


 リューリックが病室の隅から立ち上がる。


 エルゼは患者札を持つ。


 俺は寝台の上で、痛みを抱えたまま息を吸った。


 痛い。


 怖い。


 面倒くさい。


 でも、少なくとも今日は、痛いと言える。


 言えるなら、まだ書類の上で消されてはいない。


 扉が開いた。


 俺は、笑った。


 笑うと痛かった。


 その痛みすら、エルゼがあとで書くのだろう。


 ──第十一話 了



 ──Another Side エルゼ──



 夜の記録室は、昼より少し広く見える。


 人が減るからだ。


 声が減る。


 足音が減る。


 痛い、と言う声も減る。


 でも、痛みそのものが減るわけではない。


 ただ、紙の上に移るだけだ。


 エルゼは、燭台の火を少しだけ近づけ、患者札の写しを整えた。


 ロド・カナリ。


 外国人傭兵。


 左肩深創。


 脇腹浅創。


 疼痛あり。


 長時間聴取不可。


 同行者による呼称あり。


 傭兵間通称。


 身分称号にあらず。


 書いてみると、少し変な記録だった。


 だが、変な人の記録は、だいたい変になる。


 それでいい。


 人間の方を、書類に合わせて削るよりは、書類の方を少し曲げた方がいい。


 ただし、曲げすぎれば折れる。


 だから、余白がいる。


 エルゼは、余白を指でなぞった。


 そこに書いた文字は、小さい。


 けれど、小さい文字ほど、あとで誰かの目に残ることがある。


 今日、サンドルという同行者は、軍監の視線と患者札の間に、半歩だけ立った。


 それは、守るというには控えめだった。


 でも、守っていた。


 エルゼは、そういう動きを見落とさない。


 病棟では、派手に叫ぶ人より、黙って椅子を引く人の方が、患者を助けることがある。


 サンドルは、椅子を引く人だった。


 しかも、どの椅子を引けば一番人が通れるかを、見てから動く人だった。


 エルゼは、そのことが少し面白かった。


 家令。


 彼はそう言った。


 家令という仕事を、エルゼはよく知らない。


 でも、病棟記録係と似ている部分があると思った。


 誰かが大声で感謝する仕事ではない。


 でも、いないと、何かが詰まる。


 人も、物も、言葉も。


 エルゼは、新しい紙を一枚取り出した。


 公式記録ではない。


 自分の控えだ。


 そこに短く書いた。


 ロド・カナリ。痛いと言えた。


 サンドル。椅子を退ける人。


 書いてから、少しだけ笑った。


 恋ではない。


 そんなものではない。


 ただ、同じ場所を見ている人を見つけた時の、少し軽い驚きだった。


 病棟では、それだけで一日が少し楽になる。


 廊下の向こうで、軍靴の音がした。


 エルゼは控えの紙を閉じた。


 公式記録を上に置く。


 私的な記録は、下へ。


 何を見せて、何を見せないか。


 それも、記録係の仕事だった。


 ──Another Side 了



 ──第十一部 了


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