第十一部 病棟記録係エルゼと、書類の余白の話 ④ 〜言えない奴〜
夕方、ヤンが正式な証言のために呼ばれた。
彼はまだ足を引きずっている。
記録室へ入る前、俺の寝台の近くで立ち止まった。
「レオン」
「何だ」
「何を話せばいいですか」
「見たことを話せ」
「全部ですか」
「全部は無理だ。人は、怖かった時の全部を覚えてない」
ヤンの顔が少し歪んだ。
彼は、自分が固まったことを恥じている。
言わなくても分かる。
初戦の兵は、自分が思ったより勇敢でなかったことに、最初に傷つく。
敵に斬られる前に、自分の中の英雄像に斬られる。
「俺は、動けませんでした」
「知ってる」
「証言に、書かれますか」
「たぶん」
「それは、恥ですか」
俺は少し黙った。
こういう時、立派なことを言えばいいのだろう。
初戦なら当然だ、とか。
生きていれば次がある、とか。
だが、俺は立派な大人ではない。
立派な大人なら、こんなに何度も死にかけない。
「恥だ」
ヤンの顔が固まった。
「でも、死ぬよりましだ」
「……」
「恥は生きていれば薄まる。死んだら濃いまま残る。だから、生きて薄めろ」
ヤンは、少しだけ目を見開いた。
それから、うつむいた。
「それ、慰めですか」
「いや、経験談だ」
「レオンも、恥をかいたことが?」
「ありすぎて、今ではだいたい革袋に入りきらない」
ヤンが笑った。
笑って、少しだけ泣きそうな顔になった。
「行ってきます」
「行け。足は引きずれ。無理に隠すな」
「なぜ」
「痛いことを隠すと、エルゼに書かれる」
ヤンは小さく笑い、記録室へ向かった。
その背中を見ながら、俺は思った。
俺も昔、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
恥をかいても生きろ、と。
痛いと言ってもいい、と。
死に損なう前に、まず恥を抱えて歩け、と。
誰も言ってくれなかったのか。
それとも、言われたのに聞かなかったのか。
そこは、もう覚えていない。
覚えていないことも、たぶん俺の余白だった。
◇
夜、ハインリッヒとボリスがまた口論を始めた。
口論と言っても、声は低い。
病室の夜は、痛む者のものだ。
大声を出すほど、二人とも若くはなかった。
「帝国は、敵兵も治している」
ハインリッヒが言った。
「見てのとおりだ。捕虜のボリスも、この病室にいる」
「治してから裁くためだろう」
ボリスが答えた。
「裁きもなく殺されるよりましだ」
「畑を焼かれたあとに、麦の種類を説明されている気分だ」
「帝国は、無秩序を終わらせる」
「無秩序だったのは、俺たちの村か。それとも、お前たちが来たあとの村か」
ハインリッヒは黙った。
ボリスも黙った。
この二人は、互いを完全には憎みきれていない。
だから余計に会話が痛い。
憎めれば楽だ。
相手をただの敵にすれば、自分の言葉は真っ直ぐになる。
でも、病室では、敵も痛がる。
敵も水を飲む。
敵も眠れない。
それを見てしまうと、言葉は少し曲がる。
曲がった言葉は、刺さる角度も変わる。
「ロド」
ハインリッヒが、俺を見た。
「お前はどう思う」
「俺に振るな」
「外国人傭兵は、外から見ているだろう」
「外から見ている奴ほど、だいたい無責任なことを言う」
「では、無責任に言え」
俺は、しばらく黙った。
肩が痛い。
痛い時に政治の話をするものではない。
だが、痛い時ほど本音が出ることもある。
「国は、たぶん、痛いと言う奴を減らしたいんだろうな」
二人が俺を見た。
エルゼも、水差しを持ったまま足を止めた。
「ただ、やり方を間違えると、痛いと言う奴じゃなくて、痛いと言えない奴が増える」
ハインリッヒの顔が固くなる。
ボリスは、少しだけ目を細める。
「帝国がそうだと言いたいのか」
「俺は痛い。今はそれしか確かじゃない」
「逃げたな」
「逃げた。俺は逃げるのが得意だ」
ハインリッヒは不満そうだった。
ボリスは低く笑った。
エルゼは、静かに言った。
「でも、今のは記録してもいい言葉です」
「やめろ」
「余白に」
「もっとやめろ」
病室に、少しだけ笑いが落ちた。
重い話が、軽くなるわけではない。
でも、笑いが一つあると、重さの置き場所が少しだけ変わる。
ボリスは天井へ目を戻した。
ハインリッヒは本を開いた。
俺は肩を押さえた。
エルゼは水を替えた。
誰も答えを得ていない。
だが、誰も完全には黙らなかった。
それで十分な夜もある。




