第十一部 病棟記録係エルゼと、書類の余白の話 ③ 〜消さない余白〜
聴取は、アーノルト軍医の一言で中断された。
「今日はここまでだ」
「まだ確認は終わっていない」
「傷が開く」
「脇腹か」
「口もだ」
「口の傷などない」
「こいつは喋るほど体力を使う」
「軍務上、必要だ」
「医務上、不要だ」
また睨み合い。
今度はアーノルト軍医が勝った。
たぶん、病室では軍医の方が強い。
それが軍の規則なのか、アーノルトという男の圧なのかは分からない。
軍監ヴァルターは、患者札を一瞥した。
「明朝、正式聴取を行う」
「患者の状態によります」
エルゼが言った。
「お前が決めることではない」
「はい。軍医が決めます。私は状態を書きます」
「よく書く女だ」
「記録係ですので」
軍監は、病室を出ていった。
軍靴の音が遠ざかる。
しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは、ボリスだった。
「殿下、か」
「言うな」
「いい通称だ。お前には似合う」
「どこがだ」
「寝台の上で偉そうだ」
「俺は今、かなり弱ってる」
「弱ってても口は偉そうだ」
ハインリッヒが本を開いたまま、ぼそりと言った。
「帝国軍の聴取で、あの言い逃れは珍しい」
「褒めてるのか」
「軽蔑している」
「じゃあ本に戻れ」
「だが、助かったのも事実だ」
「褒めてるのか」
「事実を述べた」
「面倒くさいな、お前」
「お前に言われたくはない」
ボリスが笑った。
ハインリッヒは、少しだけ不機嫌そうに本へ目を戻した。
病室の空気が、ほんの少し緩む。
軍監が来る前の空気には戻らない。
だが、完全に固まったままでもない。
人間は、緊張の後にくだらない言葉を欲しがる。
それがないと、心がずっと軍靴の音を聞いてしまう。
「殿下」
リューリックが言った。
「何だ。今その呼び方をするな」
「本来の呼称でございます」
「分かってるけど今はやめろ」
「では、ロド様」
「それも気持ち悪い」
「サンドルとしては、呼称管理に難航しております」
「お前のせいだろ」
エルゼが、処置盆を整えながら言った。
「呼称欄を作りましょうか」
「作るな」
「ロド・カナリさん。通称、殿下。患者希望、呼ばないでほしい」
「絶対に作るな」
エルゼは、少しだけ笑った。
軽い。
その軽さが、本当に助かった。
さっきまで、俺の首は書類の上で締められかけていた。
それなのに、今は呼称欄で笑っている。
心というのは単純なのか、丈夫なのか、よく分からない。
ただ、その軽さがなければ、たぶん俺は痛みをまた飲み込んでいた。
エルゼは、痛みを飲み込ませない。
言葉にして、紙に置き、少し笑える形に変える。
それが彼女の仕事なのだと、俺は少し分かってきた。
◇
午後、エルゼはリューリックを記録室へ呼んだ。
俺は寝台から動けない。
動けないので、聞こえてくる足音と声だけを追うしかない。
だが、病室の扉が半分開いていたので、記録室前のやり取りは少し聞こえた。
「サンドルさん」
「はい」
「聴取記録の写しを作ります。ロドさんの契約経路と、ヤンさんの証言、どこまで書けますか」
「書ける事実と、書くべきでない事実を分ける必要がございます」
「はい。なので、お呼びしました」
呼んだ理由が、自然すぎた。
エルゼは、リューリックが何をできるか、もう見ている。
リューリックも、それに驚いた様子がない。
二人は、まだ知り合って一日ほどだ。
なのに、仕事の手順だけが先に噛み合っている。
俺は寝台の上で、少し面白くなった。
同時に、少し寂しくもなった。
リューリックが俺以外の人間と仕事で噛み合うのを、俺はあまり見たことがなかった。
こいつは、俺の家臣だ。
俺の見張りで、俺の荷物係で、俺の説教係で、俺が死に損なうたびに顔をしかめる男だ。
そのリューリックが、俺以外の誰かの手順を見て、自然にそこへ入っている。
良いことだ。
良いことなのに、胸のどこかが少しだけ、変な音を立てた。
主君というのは、勝手な生き物だ。
「まず、戦闘地点です」
エルゼの声。
「谷道。トルガウ北西、旧水車谷手前。馬車三台。護衛七。襲撃者、黒い上着の男三から五」
「三から五、ですか」
「目視三。矢の角度から、少なくとももう一。逃走時の足跡から、さらに一の可能性がございます」
「分かりました。確定三、推定五、と余白に補います」
「確定と推定を分けていただけるのは助かります」
「混ぜると、後で人が死にます」
「ええ」
沈黙。
短い沈黙だった。
だが、その沈黙は空白ではなかった。
同じ考えを持つ者同士が、一度だけ息を合わせた沈黙だった。
「エルゼ殿」
「はい」
「余白とは、便利ですね」
「便利です。でも、怖いです」
「なぜ」
「何でも書けるからです」
「はい」
「だから、書かないことも決めないといけません」
「なるほど」
「サンドルさんは、書かないことを決めるのが上手そうです」
「家令の仕事は、表に出すものと、出さぬものを分けることでもあります」
「病棟も似ています」
「でしょうね」
「でも、私は時々、書かないことで人を消している気がします」
その声は、少しだけ軽さを失った。
リューリックはすぐには答えなかった。
たぶん、彼はそういう時、安い慰めを言わない。
俺にはたいてい高価な説教をするくせに、他人には慎重だ。
「消さないための余白も、ございます」
やがて、リューリックが言った。
「本日、あなたが使われたように」
「通称、殿下、ですか」
「あれは、私の失策でもあります」
「失策を、欄外で救いました」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。良い言い訳でした」
「言い訳ではなく、分類でございます」
「では、良い分類でした」
「痛み入ります」
エルゼが小さく笑った。
リューリックも、たぶん笑った。
声には出なかった。
だが、気配が少しだけ緩んだ。
俺は寝台の上で、天井を見た。
心の中で、少しだけ悪態をついた。
なんだよ。
いい会話じゃないか。
俺抜きで。
それが少し腹立たしくて、少し嬉しかった。




