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第十一部 病棟記録係エルゼと、書類の余白の話 ② 〜通称、殿下〜

 アーノルト軍医が来た。


 白衣ではなく、野戦用の灰色の上着。


 髭には昨日より少し多く湯気がついている。


 彼は病室に入るなり、軍監を見た。


「また早いな、ヴァルター」


「患者の身元確認だ」


「患者は縫ったばかりだ」


「質問は短く済ませる」


「お前の短いは、患者には長い」


「軍務だ」


「医務だ」


 二人は睨み合った。


 長年の知り合いらしい。


 こういう睨み合いは、初対面ではできない。


 できれば俺を挟んでやらないでほしい。


 痛い。


「ロド・カナリ」


 軍監ヴァルターは、改めて俺を見た。


「所属は」


「今はなし」


「雇用主は」


「帝国補助部隊の移送護衛。臨時契約」


「その前は」


「いろいろ」


「いろいろでは書類にならん」


「書類にするほど立派な仕事はしてない」


「ふざけるな」


「わりと本気だ」


 左肩がずきりと痛んだ。


 痛みで、呼吸が少し遅れる。


 エルゼの視線が、そこを拾った。


 彼女は小さく記録板に線を引く。


「疼痛増悪」


「今、何を書いた」


 軍監が言った。


「疼痛増悪です」


「質問中だ」


「はい。質問中に疼痛が増えています」


「記録する必要があるのか」


「あります」


「なぜ」


「患者だからです」


 軍監の眉が動く。


 俺は、思わず笑いそうになった。


 笑うと痛いので、やめた。


 エルゼは本当に強い。


 ふわっとしているのに、足元だけ石みたいに動かない。


 リューリックが、ほんの少しだけ目を細めていた。


 感心している顔だ。


 こいつは、感心している時ほど顔が動かない。


 長年怒られてきた俺には分かる。


「同行者」


 軍監が、リューリックへ目を向けた。


「サンドル、と名乗っているな」


「はい」


 リューリックは、いつもの姿勢で一礼した。


「ロド・カナリの従者か」


「従者というより、同行管理者でございます」


「同行管理者?」


「主に、契約、荷、傷、失言、支払い、移動経路、宿の確保を担当しております」


「それは従者ではないのか」


「従者という語には、やや情緒がございます」


「面倒な男だな」


「職務上、よく言われます」


 リューリックはまったく動じなかった。


 軍監は、さらに問いを重ねる。


「戦闘時、お前がこの男を『殿下』と呼んだという証言がある」


 病室の空気が、冷えた。


 痛みが、一瞬で遠くなる。


 遠くなったのではない。


 体が、別の危険へ向いたのだ。


 リューリック。


 お前。


 俺は寝台の上で、ほとんど動けない。


 ここで身分を疑われれば、詰む。


 帝国軍の野戦病院で、元リュカリオン第一王子だと悟られる。


 笑えない。


 いや、笑え。


 笑え、俺。


 こういう時こそ、顔を馬鹿にしておけ。


 俺が口を開くより先に、リューリックが答えた。


「はい。呼びました」


 認めるな。


 俺は心の中で叫んだ。


 外では笑った。


 たぶん、かなり引きつった笑いだった。


 リューリックは続けた。


「傭兵内の通称でございます」


「通称」


「はい。戦場で真っ先に死にかけ、後方へ運ばれることで生存率を上げる者を、我々の内輪では『殿下』と呼んでおります」


 病室が沈黙した。


 俺も沈黙した。


 ボリスが、先に吹き出した。


「ひでえ通称だな」


 ハインリッヒが本で口元を隠した。


 エルゼは、記録板を抱えたまま、肩を震わせないようにしている。


 アーノルト軍医は、完全に笑うのを堪えていた。


 軍監ヴァルターだけが笑わなかった。


「なぜ殿下なのだ」


「前に出る前は勇ましく、すぐ運ばれ、寝台の上ではよく要求し、周囲の女性医療者に叱られるからでございます」


「おい、サンドル」


 俺は思わず言った。


「事実を混ぜるな」


「混ぜておりません。主成分でございます」


「なお悪いわ」


 エルゼが、とうとう小さく息を漏らした。


 笑ったのではない。


 たぶん。


 たぶん、息を整えただけだ。


「その通称を、記録にどう残す」


 軍監が言った。


 エルゼは、すぐに答えた。


「同行者による呼称。傭兵間通称。身分称号にあらず、と補記します」


「補記するのか」


「証言があるなら、補記します。補記しないと、誤読されます」


「誤読」


「はい。書類の余白は、誤読が増える場所です」


 その言葉に、リューリックの視線がエルゼへ向いた。


 ほんの一瞬。


 エルゼは、軍監を見たままだった。


 けれど、俺には分かった。


 リューリックが、今の一言を覚えた。


 こいつは、気に入った言葉を表情に出さない。


 代わりに、姿勢がわずかに静かになる。


 静かになるというのも変だが、本当にそうなのだ。


「余白は、嘘を書く場所ではないのか」


 軍監が言った。


「嘘も書けます」


 エルゼは否定しなかった。


「ですが、誤解を減らすこともできます。名前を書けない時、名前に近いものを書くこともできます。痛いと言えない人の痛みを書くこともできます」


「記録係の仕事を、ずいぶん大きく考えているな」


「小さく考えると、患者さんが紙から落ちます」


 軍監は黙った。


 俺も黙った。


 リューリックも黙った。


 エルゼは、静かに患者札の下部へ小さく書き足した。


 同行者による呼称。


 傭兵間通称。


 身分称号にあらず。


 たったそれだけの文字が、なぜか俺の首にかかっていた縄を少し緩めた気がした。


 文字は怖い。


 だが、時々、文字は人を隠す。


 いや、隠すのではない。


 間違って殺されないように、形を整える。


 そういう文字もあるのだ。


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