第十一部 病棟記録係エルゼと、書類の余白の話 ① 〜規則です〜
軍靴の音が、病室の床板に落ちた。
灰色の軍服を着た男が、扉のところに立っている。
五十代後半。
背筋はまっすぐで、眉の動きが少ない。
怒っているわけではない。
笑っているわけでもない。
ただ、人を分類することに慣れた顔だった。
軍監。
その言葉が、病室の空気を少し固くする。
ハインリッヒは本を閉じた。
ボリスは天井を見るのをやめた。
エルゼは、俺の患者札を胸元に抱えた。
リューリックは、病室の隅で静かに立ち上がった。
立っただけだ。
剣に手をかけたわけではない。
足音も立てていない。
それなのに、部屋の中で一本、見えない線が引かれた気がした。
軍監は俺を見た。
「ロド・カナリ」
低い声だった。
「外国人傭兵か」
俺は寝台の上で笑った。
笑うと、左肩が痛んだ。
痛い。
だが、今度は飲み込まなかった。
「便宜上は」
軍監の目が、ほんの少し細くなる。
「便宜上、とはどういう意味だ」
「傭兵なんて、雇われている間だけ肩書きが変わる仕事だ。今日は護衛。昨日は荷運び。明日は患者。便宜上、傭兵だ」
「口が回るな」
「痛みで少し鈍ってる」
「痛いのか」
「痛い」
俺がそう言うと、ハインリッヒがわずかに眉を動かした。
ボリスは、天井を見たまま、ふっと笑った。
エルゼだけが、普通に頷いた。
「はい。痛いですね」
軍監は、エルゼを見た。
「お前が記録係か」
「はい。病棟記録係兼世話係、エルゼです」
「患者札を見せろ」
エルゼは一歩進もうとした。
その前に、リューリックが半歩だけ動いた。
エルゼの前ではない。
俺の前でもない。
軍監の視線と患者札の間に、ちょうど薄い影が落ちる位置だった。
守るというには控えめすぎる。
偶然というには正確すぎる。
エルゼの指が、患者札の端でほんの少し緩んだ。
「患者札は、病棟記録です」
エルゼが言った。
「確認には、軍医または病棟責任者の立ち会いが必要です」
声は柔らかい。
だが、退かなかった。
軍監の視線が、細くなる。
「軍監に対して、規則を説くのか」
「はい。規則ですので」
軽い。
軽いのに、強い。
俺は思わずエルゼを見た。
怒鳴らない。
固くもならない。
ただ、手元の紙を守る。
カミラなら、書類で殴り返す。
ヴェロニカなら、刃物のように切る。
セラなら、静かに命令する。
ニーナなら、薬箱で顎を狙う。
エルゼは、そういうことをしない。
ただ、そこにある規則を、まるで湯冷ましを差し出すみたいに置く。
それが、妙に効く。
「アーノルト軍医を呼べ」
軍監が言った。
「はい」
エルゼが廊下に合図を出す。
その間、病室は静かだった。
痛い。
肩も痛いが、空気も痛い。
ハインリッヒが、本を膝に置いたまま言った。
「ヴァルター軍監」
軍監の名は、ヴァルターというらしい。
「何だ、ホルマン少尉」
「その傭兵は、帝国補助兵を救っています」
「事実確認はこれからだ」
「私も聞きました。ヤンが証言しています」
「証言は記録されてから証言になる」
ハインリッヒは口を閉じた。
彼は帝国の秩序を信じている。
だからこそ、今の言葉に反論しにくいのだろう。
信じているものの形で殴られると、人は一瞬、動けなくなる。
俺はそれを知っている。
国を失う前、俺も似たような顔をしたことがある。
たぶん。
「治したあとに、書類で殺すのか」
ボリスが低く言った。
病室の端で、オストマルク民兵の捕虜は、相変わらず天井を見ていなかった。
今度は、軍監を見ていた。
「捕虜は黙っていろ」
「黙っていても、痛みは減らんぞ」
「お前の痛みの話ではない」
「だったら誰の痛みの話だ」
ボリスの声は荒くない。
ただ、乾いていた。
乾いた木は、火がつくと早い。
エルゼが、ボリスの毛布を直した。
ただ、それだけだった。
それだけで、ボリスは口を閉じた。
彼女は命令しない。
でも、止める。
止め方が、少し不思議だった。




