表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

64/75

第十部 病棟記録係エルゼと、痛いと言っていい話 ⑤ 〜疼痛あり〜

 夜、病室は少しだけ静かになった。


 ハインリッヒは眠れず、本を開いたり閉じたりしている。


 ボリスは天井を見ている。


 俺は左肩が痛くて眠れない。


 エルゼが、最後の巡回で水を替えに来た。


「眠れませんか」


「眠れる顔か」


「眠れない顔です」


「なら聞くな」


「聞くのも仕事です」


「記録係は大変だな」


「大変です」


 彼女は、水差しを置いた。


 そして、俺の寝台の足元にある椅子に座った。


「少しだけ、話しますか」


「それも仕事か」


「たぶん、半分くらい」


「残り半分は」


「眠れない人を放っておくと、朝に面倒だからです」


「現実的だな」


「病棟は現実でできています」


 俺は笑おうとして、肩が痛んだ。


「痛い」


「はい」


「慣れないな」


「何にですか」


「痛いと言って、怒られないことに」


 エルゼは、少しだけ考えた。


「怒られない場所を、知らなかったんですね」


「たぶん」


「では、覚えてください」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません。でも、覚えることはできます」


 彼女は、記録板を抱えていなかった。


 手ぶらだった。


 記録しない話をするつもりなのだと、少し遅れて気づいた。


「エルゼ」


「はい」


「お前は、なぜ帝国病院にいる」


「徴用です。病棟記録係は足りません」


「出身は帝国中央か」


「いいえ。ノルデンです」


 その名に、ハインリッヒの本の紙音が止まった。


 ボリスも、少しだけ視線を動かした。


 ノルデン。


 帝国に組み込まれた北方の土地。


「故郷か」


「はい。今も、故郷です」


「帝国領でも?」


「帝国領でも、母が畑にいます」


 エルゼは、静かに言った。


「畑があるうちは、故郷です」


 その言葉は、俺の胸に変な刺さり方をした。


 リュカリオンには、畑があるだろうか。


 俺が知らないだけで、誰かがまだ麦を植えているのだろうか。


 俺の名を知らない子どもが、俺の国だった場所で走っているのだろうか。


 考えたくないのに、考えてしまう。


「痛いですか」


 エルゼが訊いた。


「肩か」


「いいえ」


 俺は、しばらく黙った。


 それから、小さく言った。


「痛いな」


「はい」


 それだけ。


 それだけなのに、少しだけ楽になった。



 ◇



 翌朝、アーノルト軍医の診察後、エルゼは俺の患者札を書き直した。


 ロド・カナリ。


 左肩深創。


 脇腹浅創。


 意識回復。


 食事少量可。


 疼痛あり。


 その「疼痛あり」という文字を、俺はじっと見た。


「そんなに見ないでください」


「俺の痛みが文字になってる」


「はい」


「変な感じだ」


「消しておきますか」


「いや」


 俺は首を横に振った。


「書いておいてくれ」


「はい」


 エルゼは、何でもないことのように頷いた。


 だが、俺にとっては何でもないことではなかった。


 痛い、と言った。


 痛みが書かれた。


 それで俺は、少しだけ、ここに存在している気がした。


 その時、病室の外から足音が聞こえた。


 規則正しい。


 軍靴。


 看護師でも、軍医でもない。


 エルゼの手が、ほんの少しだけ止まった。


 リューリックが、病室の隅で立ち上がる。


 ハインリッヒが本を閉じる。


 ボリスが天井を見るのをやめる。


 扉が開いた。


 灰色の軍服を着た男が入ってきた。


 五十代後半。


 背筋がまっすぐで、顔に余分な感情がない。


 軍監。


 その言葉が、誰かの息の中で落ちた。


 男は病室を一瞥し、最後に俺の患者札を見た。


「ロド・カナリ」


 低い声だった。


「外国人傭兵か」


 俺は、寝台の上で笑った。


 笑うと肩が痛んだ。


 痛い。


 だが、今度は飲み込まなかった。


「便宜上は」


 男の目が、ほんの少しだけ細くなった。


 エルゼが、俺の患者札を胸元に抱えた。


 リューリックは一歩だけ動いた。


 エルゼの前ではない。


 俺の前でもない。


 ちょうど、軍監の視線と患者札の間に、半歩だけ影が落ちる位置だった。


 守っている、と言うには控えめすぎる。


 偶然、と言うには正確すぎる。


 エルゼは、その半歩に気づいた。


 顔は動かさない。


 ただ、患者札を抱く指が、ほんの少しだけ緩んだ。


 記録係の小さな盾。


 家令の小さな位置取り。


 痛いと言っていい場所にも、軍靴は入ってくる。


 そのことを、俺はその朝、思い出した。



 ◇



 ──Another Side ヤン──



 ヤンは、夜になると眠れなかった。


 足が痛い。


 肩も痛い。


 だが、それだけではない。


 目を閉じると、谷道の石が落ちる音が戻ってくる。


 馬が跳ねる。


 矢が車輪に刺さる。


 黒い上着の男が出てくる。


 そして、自分が動けなかった瞬間が戻ってくる。


 足が地面に縫いつけられたようだった。


 あれが初戦というものなのだと、誰かが言っていた。


 でも、言葉で知っていても、体は知らなかった。


 その時、襟首を掴まれた。


 乱暴だった。


 苦しかった。


 地面に引きずられた。


 馬車の下に押し込まれた。


 そして、その人が斬られた。


 レオン。


 変な傭兵だった。


 縄の結び方に文句を言い、礼はあとで利子付きで返せと言い、痛そうなのに笑う男だった。


 ヤンは、寝台の上で自分の手を見た。


 まだ震えている。


 情けない。


 そう思った。


 でも、エルゼが夜の水を替えに来た時、言った。


「震えているんですね」


 責める声ではなかった。


「……はい」


「初戦ですから」


「みんな、そうなんですか」


「たぶん」


「レオンは」


「震えないふりが、上手な人です」


 ヤンは少しだけ笑った。


 笑うと、肩が痛かった。


「痛いです」


「はい。痛いですね」


 エルゼは、そう言って水を置いた。


 痛いと言っていい。


 怖いと言っていい。


 それを知った夜、ヤンは少しだけ眠れた。


 夢の中で、まだ谷道にいた。


 でも今度は、足が少しだけ動いた。



 ──第十部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ