第十部 病棟記録係エルゼと、痛いと言っていい話 ⑤ 〜疼痛あり〜
夜、病室は少しだけ静かになった。
ハインリッヒは眠れず、本を開いたり閉じたりしている。
ボリスは天井を見ている。
俺は左肩が痛くて眠れない。
エルゼが、最後の巡回で水を替えに来た。
「眠れませんか」
「眠れる顔か」
「眠れない顔です」
「なら聞くな」
「聞くのも仕事です」
「記録係は大変だな」
「大変です」
彼女は、水差しを置いた。
そして、俺の寝台の足元にある椅子に座った。
「少しだけ、話しますか」
「それも仕事か」
「たぶん、半分くらい」
「残り半分は」
「眠れない人を放っておくと、朝に面倒だからです」
「現実的だな」
「病棟は現実でできています」
俺は笑おうとして、肩が痛んだ。
「痛い」
「はい」
「慣れないな」
「何にですか」
「痛いと言って、怒られないことに」
エルゼは、少しだけ考えた。
「怒られない場所を、知らなかったんですね」
「たぶん」
「では、覚えてください」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも、覚えることはできます」
彼女は、記録板を抱えていなかった。
手ぶらだった。
記録しない話をするつもりなのだと、少し遅れて気づいた。
「エルゼ」
「はい」
「お前は、なぜ帝国病院にいる」
「徴用です。病棟記録係は足りません」
「出身は帝国中央か」
「いいえ。ノルデンです」
その名に、ハインリッヒの本の紙音が止まった。
ボリスも、少しだけ視線を動かした。
ノルデン。
帝国に組み込まれた北方の土地。
「故郷か」
「はい。今も、故郷です」
「帝国領でも?」
「帝国領でも、母が畑にいます」
エルゼは、静かに言った。
「畑があるうちは、故郷です」
その言葉は、俺の胸に変な刺さり方をした。
リュカリオンには、畑があるだろうか。
俺が知らないだけで、誰かがまだ麦を植えているのだろうか。
俺の名を知らない子どもが、俺の国だった場所で走っているのだろうか。
考えたくないのに、考えてしまう。
「痛いですか」
エルゼが訊いた。
「肩か」
「いいえ」
俺は、しばらく黙った。
それから、小さく言った。
「痛いな」
「はい」
それだけ。
それだけなのに、少しだけ楽になった。
◇
翌朝、アーノルト軍医の診察後、エルゼは俺の患者札を書き直した。
ロド・カナリ。
左肩深創。
脇腹浅創。
意識回復。
食事少量可。
疼痛あり。
その「疼痛あり」という文字を、俺はじっと見た。
「そんなに見ないでください」
「俺の痛みが文字になってる」
「はい」
「変な感じだ」
「消しておきますか」
「いや」
俺は首を横に振った。
「書いておいてくれ」
「はい」
エルゼは、何でもないことのように頷いた。
だが、俺にとっては何でもないことではなかった。
痛い、と言った。
痛みが書かれた。
それで俺は、少しだけ、ここに存在している気がした。
その時、病室の外から足音が聞こえた。
規則正しい。
軍靴。
看護師でも、軍医でもない。
エルゼの手が、ほんの少しだけ止まった。
リューリックが、病室の隅で立ち上がる。
ハインリッヒが本を閉じる。
ボリスが天井を見るのをやめる。
扉が開いた。
灰色の軍服を着た男が入ってきた。
五十代後半。
背筋がまっすぐで、顔に余分な感情がない。
軍監。
その言葉が、誰かの息の中で落ちた。
男は病室を一瞥し、最後に俺の患者札を見た。
「ロド・カナリ」
低い声だった。
「外国人傭兵か」
俺は、寝台の上で笑った。
笑うと肩が痛んだ。
痛い。
だが、今度は飲み込まなかった。
「便宜上は」
男の目が、ほんの少しだけ細くなった。
エルゼが、俺の患者札を胸元に抱えた。
リューリックは一歩だけ動いた。
エルゼの前ではない。
俺の前でもない。
ちょうど、軍監の視線と患者札の間に、半歩だけ影が落ちる位置だった。
守っている、と言うには控えめすぎる。
偶然、と言うには正確すぎる。
エルゼは、その半歩に気づいた。
顔は動かさない。
ただ、患者札を抱く指が、ほんの少しだけ緩んだ。
記録係の小さな盾。
家令の小さな位置取り。
痛いと言っていい場所にも、軍靴は入ってくる。
そのことを、俺はその朝、思い出した。
◇
──Another Side ヤン──
ヤンは、夜になると眠れなかった。
足が痛い。
肩も痛い。
だが、それだけではない。
目を閉じると、谷道の石が落ちる音が戻ってくる。
馬が跳ねる。
矢が車輪に刺さる。
黒い上着の男が出てくる。
そして、自分が動けなかった瞬間が戻ってくる。
足が地面に縫いつけられたようだった。
あれが初戦というものなのだと、誰かが言っていた。
でも、言葉で知っていても、体は知らなかった。
その時、襟首を掴まれた。
乱暴だった。
苦しかった。
地面に引きずられた。
馬車の下に押し込まれた。
そして、その人が斬られた。
レオン。
変な傭兵だった。
縄の結び方に文句を言い、礼はあとで利子付きで返せと言い、痛そうなのに笑う男だった。
ヤンは、寝台の上で自分の手を見た。
まだ震えている。
情けない。
そう思った。
でも、エルゼが夜の水を替えに来た時、言った。
「震えているんですね」
責める声ではなかった。
「……はい」
「初戦ですから」
「みんな、そうなんですか」
「たぶん」
「レオンは」
「震えないふりが、上手な人です」
ヤンは少しだけ笑った。
笑うと、肩が痛かった。
「痛いです」
「はい。痛いですね」
エルゼは、そう言って水を置いた。
痛いと言っていい。
怖いと言っていい。
それを知った夜、ヤンは少しだけ眠れた。
夢の中で、まだ谷道にいた。
でも今度は、足が少しだけ動いた。
──第十部 了




