第十部 病棟記録係エルゼと、痛いと言っていい話 ④ 〜小さな盾〜
翌朝、ヤンが目を覚ました。
彼は俺の病室から少し離れた小部屋にいた。
脚と肩をやっていたが、命はある。
エルゼに連れられて、俺の病室の入口まで来た。
顔色は悪い。
でも、立っていた。
「ロドさん」
「レオンでいい」
「でも、記録では」
「記録は記録だ。呼びやすい方で呼べ」
「……レオンさん」
「さんはいらない」
「じゃあ、レオン」
「何だ」
ヤンは、深く頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう」
「礼を言うなら、もっと生きてからにしろ」
「えっ」
「今日礼を言って、明日死んだら、俺の気分が悪い」
「……はい」
「だから、生きろ。礼は利子付きであとにしろ」
ヤンは、困ったように笑った。
その笑い方が、初戦の少年のものではなく、少しだけ生き残った兵のものになっていた。
エルゼが、横で小さく頷いた。
「良い請求です」
「俺は借金取りか」
「命の貸し借りは、だいたい帳簿に残りませんから」
「記録係がそれを言うのか」
「だから、覚えておくんです」
エルゼは、ヤンの肩にそっと手を置いた。
「戻ってください。長く立つと、あとで痛みます」
「はい」
ヤンは去っていった。
俺はその背中を見送った。
ああ、顔を覚えてしまった。
覚えた顔は、軽くならない。
◇
昼、グスタフがまたエルゼのところへ来た。
彼は退院前の挨拶らしかった。
手に小さな干し果物を持っている。
「エルゼさん、村の話、聞きました」
彼は帝国語で言った。
エルゼの手が止まる。
「……ええ」
「変わってしまいましたね」
「ええ。でも、母は、まだ畑です」
「……うちの母は、もう、いません」
エルゼは何も言わなかった。
ただ、頷いた。
グスタフも頷いた。
それから二人は、短い故郷の言葉を交わした。
俺には分からない。
分からないが、そこに故郷があった。
帝国軍服を着た男と、帝国病院のエプロンをつけた女が、帝国語ではない言葉で母の話をしている。
祖国を奪われた者は、敵側にもいる。
俺はそれを、口に出さなかった。
出せば、自分の名が喉まで来そうだった。
レオン・ヴァン・リュカリオン。
その名は、ここでは重すぎる。
◇
夕方、リューリックが見舞いに来た。
手に小さな包みを持っている。
「お命、ご無事で、何よりでございます」
「お前、いつもよりかしこまってるな」
「左肩、深創でございます」
「家令の家系は、深創を見るとかしこまるのか」
「やや」
「便利だな」
「不便な主君を持つと、作法が増えます」
リューリックは包みを寝台脇に置いた。
乾いたパンと、干し肉と、湯を入れた革袋だった。
「病院食より、ましでございます」
「どこで手に入れた」
「町の宿の女将でございます」
「お前の情報、本当に全部女将からだな」
「家令の家系の副業の本義でございます」
「副業に本義、まだ増えるのか」
「際限がございません」
リューリックは座らず、寝台の脇に立っていた。
視線は俺の肩に固定されている。
「ヤンは生きている」
俺が言うと、リューリックは小さく頷いた。
「はい」
「俺も生きている」
「はい」
「じゃあ、悪くない」
「悪くない、で済ませる傷ではございません」
「怒るな」
「怒ってはおりません」
「顔が怒ってる」
「家臣の顔でございます」
それは、たしかにそうだった。
怒りではない。
心配でもない。
たぶん、置いていかれかけた者の顔だった。
エルゼが包帯交換の道具を持ってきたのは、その時だった。
布、湯、鋏、処置札。
すべてが小さな盆の上に、きっちり並んでいる。
リューリックの視線が、ほんのわずかにその盆へ落ちた。
「配置が、よろしいですね」
唐突に、リューリックが言った。
エルゼが瞬きをした。
「配置、ですか」
「はい。手前から、汚れを受ける布、洗浄用の湯、鋏、乾いた包帯、処置札。使う順番と戻す場所が一致しております」
「……分かりますか」
「家令の家系の副業の本義として、置かれた物の順序は重要でございます」
「病棟でも同じです。置き場所を間違えると、手が一つ足りなくなります」
「ええ。物の位置は、沈黙する手でございます」
エルゼは、そこで少しだけ笑った。
怒らない女が笑うと、こちらの調子は崩れる。
だが、今回は俺ではなく、リューリックの方がほんのわずかに黙った。
ほんのわずかだった。
普通の人間なら気づかない。
だが、俺は長年こいつに怒られてきた。
その一拍の遅れくらいは、分かる。
「リューリックさんは、家令なのに、医療道具の配置まで見るんですね」
「家令は医療を行いません。ただ、医療が滞らぬよう、邪魔な椅子を退ける程度はいたします」
「それ、病棟ではとても助かります」
「過分なお言葉でございます」
「過分じゃありません。椅子を退ける人がいるだけで、患者さんは一人多く通れます」
エルゼは、何でもないことのように言った。
リューリックは、ほんの少しだけ目を伏せた。
褒められ慣れていない顔ではない。
だが、自分の仕事の細部を正確に見られた時の顔だった。
「殿下」
「何だ」
「エルゼ殿は、たいへん良い記録係でございます」
「俺に言うな。本人に言え」
「本人の前で申し上げております」
「そういうところだぞ」
エルゼは、くすっと笑った。
「ありがとうございます。リューリックさんも、たいへん良い見張り係ですね」
「家令でございます」
「はい。たいへん良い家令さんです」
リューリックは、反論しなかった。
珍しい。
かなり珍しい。
俺は、それを見て少しだけ面白くなった。
「おい、リューリック」
「何でございましょう」
「お前、今ちょっと嬉しかっただろ」
「処置中の患者は、余計な観察を控えるべきでございます」
「当たりだな」
「エルゼ殿、包帯交換をお願いします。主君の口数が増えております」
「痛み止めは少量ですから、口は止まりません」
「では、諦めます」
「お前ら、初対面で俺を諦めるな」
エルゼが包帯を替える。
リューリックは、邪魔になる椅子を一つ下げ、湯の置き場所をほんの少しだけ変えた。
エルゼは、それに何も言わず、自然に手を伸ばした。
会話がないのに、手順が噛み合っていた。
俺は、少しだけ妙な気分になった。
こいつら、相性がいい。
そう思った。
口に出すと、二人に同時に否定されそうなので、言わなかった。
「痛いですか」
エルゼが聞いた。
俺は、少し迷ってから答えた。
「痛い」
「はい」
それだけ。
それだけで済んだ。
リューリックが、そのやり取りを見て、静かに言った。
「エルゼ殿」
「はい」
「主君が痛いと言った場合、良い兆候として記録いただけますか」
「はい。言えた場合は、かなり良い兆候です」
「たいへん助かります」
「こちらこそ。言えるように見張る方がいると、病棟は少し楽になります」
「私は、殿下を黙らせる側でございました」
「では、今日だけ少し役割変更ですね」
「……心得ました」
その「心得ました」は、いつもの家令口調だった。
だが、少しだけ柔らかかった。




