表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

63/75

第十部 病棟記録係エルゼと、痛いと言っていい話 ④ 〜小さな盾〜

 翌朝、ヤンが目を覚ました。


 彼は俺の病室から少し離れた小部屋にいた。


 脚と肩をやっていたが、命はある。


 エルゼに連れられて、俺の病室の入口まで来た。


 顔色は悪い。


 でも、立っていた。


「ロドさん」


「レオンでいい」


「でも、記録では」


「記録は記録だ。呼びやすい方で呼べ」


「……レオンさん」


「さんはいらない」


「じゃあ、レオン」


「何だ」


 ヤンは、深く頭を下げた。


「助けてくれて、ありがとう」


「礼を言うなら、もっと生きてからにしろ」


「えっ」


「今日礼を言って、明日死んだら、俺の気分が悪い」


「……はい」


「だから、生きろ。礼は利子付きであとにしろ」


 ヤンは、困ったように笑った。


 その笑い方が、初戦の少年のものではなく、少しだけ生き残った兵のものになっていた。


 エルゼが、横で小さく頷いた。


「良い請求です」


「俺は借金取りか」


「命の貸し借りは、だいたい帳簿に残りませんから」


「記録係がそれを言うのか」


「だから、覚えておくんです」


 エルゼは、ヤンの肩にそっと手を置いた。


「戻ってください。長く立つと、あとで痛みます」


「はい」


 ヤンは去っていった。


 俺はその背中を見送った。


 ああ、顔を覚えてしまった。


 覚えた顔は、軽くならない。



 ◇



 昼、グスタフがまたエルゼのところへ来た。


 彼は退院前の挨拶らしかった。


 手に小さな干し果物を持っている。


「エルゼさん、村の話、聞きました」


 彼は帝国語で言った。


 エルゼの手が止まる。


「……ええ」


「変わってしまいましたね」


「ええ。でも、母は、まだ畑です」


「……うちの母は、もう、いません」


 エルゼは何も言わなかった。


 ただ、頷いた。


 グスタフも頷いた。


 それから二人は、短い故郷の言葉を交わした。


 俺には分からない。


 分からないが、そこに故郷があった。


 帝国軍服を着た男と、帝国病院のエプロンをつけた女が、帝国語ではない言葉で母の話をしている。


 祖国を奪われた者は、敵側にもいる。


 俺はそれを、口に出さなかった。


 出せば、自分の名が喉まで来そうだった。


 レオン・ヴァン・リュカリオン。


 その名は、ここでは重すぎる。



 ◇



 夕方、リューリックが見舞いに来た。


 手に小さな包みを持っている。


「お命、ご無事で、何よりでございます」


「お前、いつもよりかしこまってるな」


「左肩、深創でございます」


「家令の家系は、深創を見るとかしこまるのか」


「やや」


「便利だな」


「不便な主君を持つと、作法が増えます」


 リューリックは包みを寝台脇に置いた。


 乾いたパンと、干し肉と、湯を入れた革袋だった。


「病院食より、ましでございます」


「どこで手に入れた」


「町の宿の女将でございます」


「お前の情報、本当に全部女将からだな」


「家令の家系の副業の本義でございます」


「副業に本義、まだ増えるのか」


「際限がございません」


 リューリックは座らず、寝台の脇に立っていた。


 視線は俺の肩に固定されている。


「ヤンは生きている」


 俺が言うと、リューリックは小さく頷いた。


「はい」


「俺も生きている」


「はい」


「じゃあ、悪くない」


「悪くない、で済ませる傷ではございません」


「怒るな」


「怒ってはおりません」


「顔が怒ってる」


「家臣の顔でございます」


 それは、たしかにそうだった。


 怒りではない。


 心配でもない。


 たぶん、置いていかれかけた者の顔だった。


 エルゼが包帯交換の道具を持ってきたのは、その時だった。


 布、湯、鋏、処置札。


 すべてが小さな盆の上に、きっちり並んでいる。


 リューリックの視線が、ほんのわずかにその盆へ落ちた。


「配置が、よろしいですね」


 唐突に、リューリックが言った。


 エルゼが瞬きをした。


「配置、ですか」


「はい。手前から、汚れを受ける布、洗浄用の湯、鋏、乾いた包帯、処置札。使う順番と戻す場所が一致しております」


「……分かりますか」


「家令の家系の副業の本義として、置かれた物の順序は重要でございます」


「病棟でも同じです。置き場所を間違えると、手が一つ足りなくなります」


「ええ。物の位置は、沈黙する手でございます」


 エルゼは、そこで少しだけ笑った。


 怒らない女が笑うと、こちらの調子は崩れる。


 だが、今回は俺ではなく、リューリックの方がほんのわずかに黙った。


 ほんのわずかだった。


 普通の人間なら気づかない。


 だが、俺は長年こいつに怒られてきた。


 その一拍の遅れくらいは、分かる。


「リューリックさんは、家令なのに、医療道具の配置まで見るんですね」


「家令は医療を行いません。ただ、医療が滞らぬよう、邪魔な椅子を退ける程度はいたします」


「それ、病棟ではとても助かります」


「過分なお言葉でございます」


「過分じゃありません。椅子を退ける人がいるだけで、患者さんは一人多く通れます」


 エルゼは、何でもないことのように言った。


 リューリックは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 褒められ慣れていない顔ではない。


 だが、自分の仕事の細部を正確に見られた時の顔だった。


「殿下」


「何だ」


「エルゼ殿は、たいへん良い記録係でございます」


「俺に言うな。本人に言え」


「本人の前で申し上げております」


「そういうところだぞ」


 エルゼは、くすっと笑った。


「ありがとうございます。リューリックさんも、たいへん良い見張り係ですね」


「家令でございます」


「はい。たいへん良い家令さんです」


 リューリックは、反論しなかった。


 珍しい。


 かなり珍しい。


 俺は、それを見て少しだけ面白くなった。


「おい、リューリック」


「何でございましょう」


「お前、今ちょっと嬉しかっただろ」


「処置中の患者は、余計な観察を控えるべきでございます」


「当たりだな」


「エルゼ殿、包帯交換をお願いします。主君の口数が増えております」


「痛み止めは少量ですから、口は止まりません」


「では、諦めます」


「お前ら、初対面で俺を諦めるな」


 エルゼが包帯を替える。


 リューリックは、邪魔になる椅子を一つ下げ、湯の置き場所をほんの少しだけ変えた。


 エルゼは、それに何も言わず、自然に手を伸ばした。


 会話がないのに、手順が噛み合っていた。


 俺は、少しだけ妙な気分になった。


 こいつら、相性がいい。


 そう思った。


 口に出すと、二人に同時に否定されそうなので、言わなかった。


「痛いですか」


 エルゼが聞いた。


 俺は、少し迷ってから答えた。


「痛い」


「はい」


 それだけ。


 それだけで済んだ。


 リューリックが、そのやり取りを見て、静かに言った。


「エルゼ殿」


「はい」


「主君が痛いと言った場合、良い兆候として記録いただけますか」


「はい。言えた場合は、かなり良い兆候です」


「たいへん助かります」


「こちらこそ。言えるように見張る方がいると、病棟は少し楽になります」


「私は、殿下を黙らせる側でございました」


「では、今日だけ少し役割変更ですね」


「……心得ました」


 その「心得ました」は、いつもの家令口調だった。


 だが、少しだけ柔らかかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ