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第十部 病棟記録係エルゼと、痛いと言っていい話 ③ 〜痛いです〜

 午前、軍医が来た。


 アーノルトという名の帝国軍医だった。


 五十代。


 灰色の髭。


 目だけが、鋭い。


 政治の匂いは薄い。


 人間の体を、国旗より先に見ている目だった。


「左肩」


 彼は短く言った。


「鎖骨は外れている。肺も、太い血管も外れている。ただし、筋と皮膚は、かなり裂けている」


「聞いているだけで痛いな」


「痛いだろう」


「そこで肯定するな」


「事実だ」


 アーノルト軍医は包帯を少しめくった。


 俺は声を飲み込んだ。


 飲み込めなかった。


「……痛い」


 小さく漏れた。


 言ってから、自分で驚いた。


 エルゼが、記録板を抱えたまま、静かに言った。


「はい。痛いですね」


 それだけだった。


 誰も笑わない。


 誰も責めない。


 誰も「その程度で」と言わない。


 痛いと言ったら、痛いこととして扱われた。


 それだけで、体の奥の別の場所が少し緩んだ。


「縫った」


 アーノルト軍医が言った。


「糸は、もう抜けない。左腕は、しばらく使うな」


「しばらくとは」


「半月で動かせる。一月でまあまあ。三月で戦場に戻れる」


「三月」


「不満か」


「仕事が」


「死に急ぐ仕事なら、廃業しろ」


 帝国軍医に正論で刺された。


 最近、あらゆる医療関係者が俺に正論を刺してくる。


 俺は針山か何かか。


「脇腹は浅い。だが、動けば開く」


「つまり」


「寝ていろ」


「そればかり言われる」


「起きるからだ」


 アーノルト軍医は処置札を書き、エルゼに渡した。


「痛み止めは」


「弱いものを少量で」


「ニーナの、いや、持ち込みの薬は」


 俺は自分の革袋を見ようとした。


 体が動かない。


 エルゼが、寝台脇の荷物を確認した。


「持ち込みの鎮痛剤は、ありません。乾燥薬と包帯、止血粉、布、金属片、馬蹄鉄、活字、紙片が複数」


「俺の懐を全部読み上げるな」


「記録が必要です」


「馬蹄鉄は医療品じゃない」


「重そうでした」


「それは否定しない」


 エルゼは、少しだけ首をかしげた。


「不思議な荷物ですね」


「俺もそう思う」


「でも、捨てないんですね」


「ああ」


「では、置いておきます」


 エルゼは、それ以上訊かなかった。


 訊かない優しさというものがある。


 俺は、それにもまだ慣れていなかった。



 ◇



 午後になると、病室の他の患者が見えてきた。


 俺の寝台の真向かいに、若い士官が座っていた。


 二十六、七。


 整った顔。


 頑なな目。


 帝国軍の制服。


 右腕と脇腹に包帯。


 本を読んでいる。


 たまに俺を見て、すぐ本へ戻る。


 名は、ハインリッヒ・フォン・ホルマン。


 帝国中央の貴族家系の士官だという。


 その隣の寝台には、中年の男がいた。


 四十代半ば。


 寒冷地の肌。


 脚に包帯。


 オストマルク民兵服。


 捕虜、ということだった。


 名は、ボリス・モロー。


 彼は天井を見ていて、俺を見なかった。


 さらに、別室から時々、回復期の兵士が顔を出した。


 三十代。


 帝国軍補助部隊の制服。


 名はグスタフ。


 軽傷で、もうすぐ退院らしい。


 彼はエルゼに、帝国語ではない言葉で話しかけた。


 エルゼも同じ言葉で返す。


 短い。


 二人は短く笑う。


 俺には半分しか分からない。


 だが、聞いたことのある音が混じっていた。


 昔、リュカリオンの古い者が話していた、北方の訛りに少し似ていた。


 病室は、帝国の見本市だった。


 帝国本軍の士官。


 オストマルクの捕虜。


 旧吸収国出身の補助兵。


 外国人傭兵の俺。


 そして、国に飲み込まれた土地の言葉をまだ持っている記録係。


 帝国は一つの国だ。


 だが、一枚の布ではない。


 何枚もの布を、強い糸で縫い合わせたものだ。


 その縫い目は、近くで見ると、かなり痛そうだった。


「外国人傭兵か」


 夜、ハインリッヒが本を閉じて言った。


「便宜上はな」


「金で動く者には、分からない景色がある」


「いきなり面倒な話をするな」


「帝国は、世界に秩序を与える」


「俺は今、粥と包帯で十分だ」


「笑ってごまかすな」


「笑ってないと痛いんだよ」


 言ってから、しまったと思った。


 痛い、とまた言ってしまった。


 エルゼが、隣で水差しを替えながら、普通に頷いた。


「はい。痛いですね」


 それで終わった。


 ハインリッヒが、少しだけ眉を動かした。


「お前は、恥じないのか」


「何を」


「痛いと言うことを」


「痛いものは痛いだろ」


 俺は言った。


 言ってから、自分で驚いた。


 少し前の俺なら、そんなことは言わなかった。


 エルゼのせいだ。


 たぶん、粥のせいでもある。


「帝国兵は言わない」


 ハインリッヒが言った。


「統一の兵は、個人の痛みより大きな目的を見る」


 その時、隣のボリスが低く笑った。


 乾いた笑いだった。


「その大きな目的に、俺の村は入っているのか」


 ハインリッヒは、ボリスを見た。


「オストマルクも、いずれ秩序の中に入る」


「入れられる、の間違いだろう」


「無秩序よりはましだ」


「お前たちの秩序は、いつも俺たちの畑の上に来る」


 病室が静かになった。


 エルゼは二人を止めなかった。


 ただ、水差しを置き、ボリスの毛布を直した。


「治してから、殺すのか」


 ボリスが言った。


「それなら、最初から殺してくれ」


 エルゼは、少しだけ手を止めた。


 それから、静かに答えた。


「治すのは、軍医の仕事です。殺すかどうかは、別の人が決めます」


「ひどい国だな」


「はい」


 エルゼは、否定しなかった。


「でも、ここでは、治します」


 ボリスは、何も言わなかった。


 ハインリッヒも言わなかった。


 俺も言えなかった。


 帝国の野戦病院で、帝国の理想と帝国の被害者と帝国に飲まれた民が、同じ夜に水を飲んでいる。


 それは、ひどく奇妙で、ひどく現実だった。


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