第十部 病棟記録係エルゼと、痛いと言っていい話 ② 〜怖くない〜
「起きましたね」
白い声がした。
いや、白い声というのは変だ。
だが、そう聞こえた。
怒っていない声。
急かしていない声。
低すぎず、高すぎず、こちらの目覚めを待っていた声。
俺は目を開けた。
天井は木だった。
リヴェンの集会所ではない。
梁が太い。
壁には帝国軍の管理札が下がっている。
窓の外は白く曇っていた。
空気に、古い消毒液と湿った包帯の匂いがある。
左肩が痛い。
脇腹も痛い。
頭まで痛い。
体のどこかが痛いというより、体そのものが痛みの入れ物になっていた。
「……ここは」
「帝国軍の野戦病院です」
「最悪の目覚めだな」
「目覚めたので、最悪ではありません」
白いエプロンの女が、俺のそばに立っていた。
年は二十代前半。
中肉で、暖色寄りの茶色い髪を後ろでゆるくまとめている。
目は明るい。
明るいが、うるさくない。
手には記録板。
腰には小さな布袋。
看護師というより、病棟の世話係と記録係を兼ねたような格好だった。
「お名前を確認します」
「ロド・カナリ」
「はい。ロド・カナリさん」
「……疑わないのか」
「私は、ここに書かれた名前を間違えないのが仕事です」
「本名かどうかは?」
「軍監の仕事です」
「優しいな」
「分担です」
女は、記録板に短く何かを書いた。
「私はエルゼ・ノルデンです。病棟記録係兼世話係です」
「記録係?」
「はい。患者名簿、処置札、配膳、洗濯、包帯交換補助、だいたい何でもです」
「だいたい何でも、は大変そうだな」
「だいたい何でもやらないと、だいたい何も回らないので」
言い方が柔らかい。
なのに、芯がある。
セラとは違う。
セラは鋼の包帯だった。
ニーナは走る薬箱だった。
ヴェロニカは刃物だった。
カミラは書類で殴る監察官だった。
エルゼは、怒らない。
それが逆に、怖かった。
「痛いですね」
「……いや」
「痛い時は、痛いと、言ってください」
俺は言葉を失った。
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「ここでは、それで怒られません」
「怒られない、ってどういうことだ」
「怒られない、ということです」
「……優しいと、逆に怖いな」
「怖くありません。お粥です」
エルゼは、椀を持ち上げた。
薄い粥だった。
湯気が立っている。
俺はその湯気を見た。
確かに、怖くはない。
ただ、左肩は怖いくらい痛かった。
「自分で食べられますか」
「食べられる」
俺は右手を動かそうとした。
動かなかった。
いや、動く。
動くが、動かすと左肩まで響く。
息が止まる。
エルゼは怒らなかった。
急かさなかった。
ただ、椀を少しだけ近づけた。
「無理をするか、食べるか、どちらかにしてください」
「優しいようで、そこそこ厳しいな」
「お粥が冷めます」
「それは重大だ」
「はい」
エルゼが匙で粥をすくった。
俺は口を開けた。
この年で女に粥を食わせてもらうというのは、なかなか情けない。
だが、情けないと思う元気があるだけ、まだましなのだろう。
「こぼさないでください」
「こぼすほど子どもじゃない」
「昨日は眠ったまま、二回こぼしました」
「記録するな」
「記録係ですので」
リューリックみたいなことを言う女が、また一人増えた。
俺は粥を飲み込んだ。
薄い。
温かい。
怖くない。
怖くない、という言葉が、初めて意味として腹に落ちた。




