第十部 病棟記録係エルゼと、痛いと言っていい話 ① 〜痛いと言わない〜
痛い、と言うのは、弱いことだと思っていた。
傭兵は、痛いと言わない。
痛いと言えば、足元を見られる。
痛いと言えば、報酬を削られる。
痛いと言えば、次の戦場で前に出される。
痛いと言えば、まだ動けるのに寝かされる。
だから俺は、痛い時ほど笑うことにしていた。
軽口を叩く。
女に惚れる。
リューリックに怒られる。
そうしていれば、痛みは少しだけ、俺のものではない顔をする。
だが、世界には、痛いと言っても怒られない場所があるらしい。
俺は、それを知らなかった。
いや、正確には、知らないふりをしていたのかもしれない。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ただの傭兵。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
そして今回、俺は、死にかけ方を少し間違えた。
◇
ラートブルックの橋を越え、医療輸送隊と別れたあと、俺たちはさらに北西へ進んだ。
道は乾いていた。
空は低くなり、夏の名残は、丘の枯れ草の先に少しだけ残っている程度だった。
オストマルク辺境。
帝国とイタリカの間に挟まれた緩衝地帯。
地図の上では線で区切られているが、現地に来ればそんな線は見えない。
見えるのは、焼けた宿場。
片側だけ修理された橋。
荷を急がせる商人。
酒場の裏で、敵国の兵同士が同じ火で手を温める夜。
戦場と市場と逃げ道が、同じ街道の上に並んでいた。
トルガウという宿場町に着いたのは、十日目の夕方だった。
町というには小さく、砦というには緩い。
石壁はある。
だが、門の外では商人が酒を売り、門の内側では傭兵が賭けをしている。
帝国兵もいた。
オストマルク民兵もいた。
どちらも相手を睨みながら、同じ宿屋の薄い麦酒を飲んでいた。
「ここ、本当に戦場なのか」
「戦場でございます」
リューリックが、馬から荷を下ろしながら言った。
「ただし、昼は商売、夜は国境、朝は戦場に戻る場所です」
「嫌な宿場だな」
「長く続く戦争は、こういう場所を作ります」
「お前、最近真面目なことを言う頻度が高いぞ」
「殿下が真面目な場所に足を入れすぎておられます」
「俺はなるべく軽い場所が好きなんだが」
「存じております。女性のいる医療施設など」
「言い方」
その夜、俺たちは護衛仕事を拾った。
帝国補助部隊の荷馬車を、トルガウの北の補給線まで運ぶ仕事だった。
王国側の仕事ではない。
イタリカの仕事でもない。
帝国の仕事。
普通なら受けない。
だが、仕事の表向きは「負傷者移送馬車の護衛」で、荷には包帯と水と乾燥粥が積まれていた。
しかも、報酬がよかった。
報酬は大事だ。
傭兵は、理念だけでは飯が食えない。
それに、負傷者移送と聞いてしまうと、ニーナの言葉が革袋の中でうるさかった。
薬は患者のもの。
布は届けば包帯になる。
俺は、そういう言葉に弱くなっていた。
「殿下」
「何だ」
「帝国の仕事でございます」
「分かってる」
「偽名は」
「ロド・カナリ」
「私めは、サンドル」
「すっかり慣れたな」
「家令の家系の副業の本義として、偽名管理も重要でございます」
「家令って何なんだよ」
「万能ではございません。主君の軽率さ以外は、だいたい処理します」
「一番処理してほしいところを外すな」
翌朝、移送隊は出た。
馬車は三台。
護衛は少ない。
帝国補助部隊の若い兵たちが数人。
その中に、まだ声変わりも終わりきっていない少年がいた。
ヤン、と呼ばれていた。
小柄で、荷の縄を結ぶ手つきだけが妙に真面目だった。
初戦の兵は、目で分かる。
自分が死ぬかもしれないことを、まだ体が信じていない目をしている。
「おい、ヤン」
俺は馬車の横を歩きながら声をかけた。
「縄、固すぎる」
「えっ」
「固く結べばいいってもんじゃない。解けない縄は、急ぐ時に荷を殺す」
「荷を、殺す?」
「そういうもんだ。逃げる時に解けない縄は、味方の足を引っ張る」
「……勉強になります」
「いや、俺に真面目に礼を言うな。調子が狂う」
少年は困った顔をした。
リューリックが、横から静かに言った。
「殿下、若者に混乱を与えております」
「俺は親切にしただけだ」
「殿下の親切は、ときどき形状が不安定です」
「荷縄みたいに言うな」
ヤンが小さく笑った。
その笑い方が、どこか遠い過去の誰かに似ていた。
俺は、それ以上話しかけなかった。
話しかけすぎると、顔を覚えてしまう。
顔を覚えると、戦場で面倒になる。
面倒になるのに、覚えてしまう。
それが一番面倒だった。
◇
襲撃は、昼前だった。
谷道に入ったところで、前方の斜面から石が落ちた。
落石ではない。
落とされた石だ。
先頭の馬が驚いて横へ跳ね、馬車が斜めに止まる。
次に矢が来た。
殺すための矢ではない。
馬と車輪を狙う矢。
橋の時と同じだ。
止める矢。
「伏せろ!」
俺は叫んだ。
ヤンが固まっていた。
初戦の兵士は、最初の矢を見てから体が遅れる。
俺は走った。
走った時点で、計算は狂っていた。
本来なら、矢の角度を見て、浅く肩を掠めるくらいがちょうどいい。
派手に血を流し、後送され、報酬は請求する。
それが俺の完璧な負傷計画だった。
だが、ヤンは馬車の横で立ち尽くしていた。
彼の前に、黒い上着の男が出た。
短い斧。
俺は、考えるより先にヤンの襟首を掴んだ。
引きずった。
彼の体が軽かった。
軽すぎた。
その軽さに腹が立った。
「走れ!」
「足が」
「足は後で考えろ!」
俺はヤンを馬車の下へ押し込んだ。
その瞬間、斧が来た。
左肩。
避けきれなかった。
鋭い熱。
次に、脇腹を何かが掠めた。
息が詰まる。
計算通りではない。
浅くない。
深い。
あ、これはまずい。
そう思った時には、膝が泥についた。
リューリックの声が、遠くで聞こえた。
「殿下!」
「……叫ぶな。偽名が」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
ヤンが馬車の下から這い出そうとしていた。
「出るな、馬鹿」
「でも」
「俺が馬鹿をやった意味がなくなるだろ」
そこまで言って、視界が揺れた。
最後に見えたのは、リューリックが黒い上着の男を杖で叩き落とす姿だった。
家令の家系の副業の本義は、今日もかなり暴力的だった。




