第九部 町医者の娘ニーナと、最後の痛み止めの話 ⑥ 〜言葉は烙印〜
──Another Side カミラ──
ノヴァ・ローマの朝は、石の色をしていた。
イタリカ共産国の首都。
革命の心臓。
広場には、鎖を断ち切る労働者の像が立っている。
その足元には、今でも花が置かれる。
古い同志の名を刻んだ碑もある。
奴隷番号ではなく、名前で刻まれた碑だ。
カミラ・パヴェルは、その前を通るたびに、左手首の烙印跡を隠さないようにしてきた。
忘れないためだった。
忘れない者が国家にいる限り、革命は完全には腐らない。
そう信じていた。
再審査室は、中央監察局の三階にあった。
窓は高く、外の広場は見えない。
見えるのは空だけだった。
空だけを見せる部屋は、たいてい地上のことを忘れさせるために作られている。
長い机の向こうに、三人の審査官が座っていた。
中央にマルキウス・コルヴァヌス。
右に若い法務官。
左に、カミラの知らない女。
赤い襟章。
党倫理委員会の者だ。
予定より、一人多い。
カミラは、その時点で、処分の種類が変わったことを理解した。
本来なら、これは行政上の再審査で済むはずだった。
権限停止。
減給。
地方左遷。
あるいは、監視付き勤務。
どれも、重いが、耐えられる処分だった。
だが、党倫理委員会が同席しているなら、話は違う。
これは、行為の審査ではない。
思想の審査だ。
「カミラ・パヴェル」
マルキウスが言った。
「はい」
「ガリレオ坑道停止に関する再審査を開始する」
「承知しています」
法務官が紙束を開いた。
紙の量が多い。
現場報告だけではない。
誰かが、意図的に積み増している。
「追加確認事項があります」
「何でしょうか」
「青いインクと呼ばれる非合法印刷網との接触疑惑」
カミラは表情を変えなかった。
「次に、外国人傭兵との不適切接触」
左手の指先が、ほんのわずかに止まった。
廊下。
床板。
水を探していたという馬鹿な弁明。
殴った頬。
顔がうるさい男。
カミラは、それらを一瞬で押し込めた。
ここで動揺すれば、すべて書かれる。
「さらに、ガリレオ坑夫妻たちの座り込みを黙認し、人民鉱山の稼働停止を事実上支援した疑い」
党倫理委員の女が、初めて口を開いた。
「監察官パヴェル。あなたは、人民に止める権利がある、と発言しましたか」
「現場で、人民の鉱山は人民が止められる、と言いました」
「それは、中央の生産計画より、現場の判断を優先するという意味ですか」
「違います」
「では、どういう意味ですか」
「死にそうな人民を、計画のために坑道へ降ろしてはならないという意味です」
女は、ペンを走らせた。
その音が、石の部屋に細く響く。
「危険な言い換えですね」
「現場では、危険な現実が先にあります」
「あなたは今、中央は現場を知らない、と言いましたか」
「そこまでは言っていません」
「では、そう思っているのですか」
質問が、処分の形をしていなかった。
罠の形をしていた。
カミラは、息を吸った。
革命戦争の時、尋問を受けたことがある。
帝国兵の前で、名前を聞かれた。
奴隷番号で答えろと言われた。
その時より、今の方が少しだけ寒かった。
目の前にいるのは敵ではない。
同じ革命の庁舎にいる者たちだからだ。
「私は、中央も現場も、どちらも必要だと考えています」
「模範的な答えです」
党倫理委員の女は、笑わなかった。
「ですが、模範的すぎる答えは、時に本心を隠します」
カミラは黙った。
マルキウスが、ほんのわずかに眉を動かした。
彼は、この場が当初予定していた再審査からずれ始めていることを理解している。
だが、止めない。
止められないのか、止める気がないのか。
それはまだ分からなかった。
「本日はここまでとします」
法務官が言った。
「後日、正式な弾劾審査へ移行する可能性があります。監察官パヴェルは、ノヴァ・ローマを離れないように」
「私は、監察官権限を停止されています」
「はい」
「では、私は何としてここに留まればよいのですか」
法務官は、少しだけ困った顔をした。
党倫理委員の女が答えた。
「革命に忠実な一市民として」
カミラは、初めて少しだけ笑いそうになった。
笑えば、たぶん負けだった。
だから笑わなかった。
「承知しました」
再審査室を出る。
廊下の窓から、鎖を断ち切る労働者の像が見えた。
像は広場を見下ろしている。
広場には人がいる。
パンを買う女。
荷車を押す男。
走る子ども。
誰も、この三階の部屋を見上げていない。
国家は、信じてくれる者から先に使う。
その言葉を、カミラは自分で言った。
今、その言葉が、自分の喉の奥で戻ってくる。
使われることは、まだ耐えられる。
だが、使われたあとに、捨てられるのではなく、罪として書き換えられるなら。
それは、何と呼べばいいのだろう。
カミラは左手首を見た。
古い烙印跡。
消さずに残したもの。
その上に、今日、見えない新しい印が押された気がした。
反国家。
内通。
不適切接触。
言葉は、烙印になる。
なら、言葉で剥がすしかない。
カミラは、廊下を歩き出した。
足音は、まだ監察官のものだった。
けれど、背中のどこかで、何かが小さく軋んでいた。
──第九部 了




