第九部 町医者の娘ニーナと、最後の痛み止めの話 ⑤ 〜最後にしない〜
翌朝、橋は仮補修された。
医療輸送隊は、荷を減らし、一台ずつ橋を渡ることになった。
ニーナは、出発前に俺たちのところへ来た。
髪は結い直され、いつもの薬箱を抱えている。
昨夜の洗濯場のことなど、なかった顔をしていた。
ただ、俺と目が合った瞬間だけ、耳が赤くなった。
すぐに医療者の顔へ戻る。
「レオン、肩の包帯は三日後に替えて。濡らしたらすぐ交換。無理に剣を振るのは禁止」
「ああ」
「返事が軽い」
「承知した」
「それ、リューリックさんの真似でしょ。似てない」
「どう返事すればいいんだ」
「実行」
「またそれか。最近、女たち全員に実行しろと言われる」
「できてないからでしょ」
ニーナは、薬箱から小さな包みを出した。
中には、乾燥させた薬草と、小さな丸薬が数粒入っている。
「痛み止めじゃない。炎症を抑える薬と、眠るための軽い薬。痛みを消すものじゃないから、無茶はできない」
「無茶をしないための薬か」
「そう。あんたには、本当はそっちの方が必要」
「手厳しいな」
「患者教育」
俺は包みを受け取った。
革袋に入れる。
硝子管が消えた場所に、紙包みが収まった。
重さはほとんどない。
けれど、空白が埋まった気がした。
「ニーナ」
「何」
「最後の一本を、ちゃんと使えたと思うか」
ニーナは、少しだけ黙った。
橋の向こうから、輸送隊の男たちが呼んでいる。
それでも彼女は、急がなかった。
「分からない」
「分からないのか」
「うん。薬の使い方が正しかったかどうかは、患者さんが生きたあとにしか分からない。今日助かった人が、明日どう生きるかまでは、うちには決められない」
「……」
「でも、使わなければ、あの人は昨日の橋で終わってた。だから、使った」
「強くなったな」
「怖くなっただけ」
「怖いのか」
「怖いよ。薬を使うのも、使わないのも、どっちも怖い。でも、怖いから何もしない方がもっと怖い」
ニーナは、少しだけ笑った。
「だから、次を作る。最後の一本を、最後にしないために」
その言葉は、静かだった。
けれど、俺の中に長く残る気がした。
最後の一本を、最後にしない。
たぶん、それは薬だけの話ではない。
国も、人も、名前も、同じなのかもしれない。
「また会えるか」
俺が言うと、ニーナは薬箱を抱え直した。
「あんたは、どうせまたどこかで怪我する」
「ひどい予言だ」
「予言じゃない。統計」
「お前までリューリックみたいなことを言うな」
「だから、また会える」
ニーナはそう言った。
それから、少しだけ目を伏せる。
「その時は、できれば死にかける前に来て」
「努力する」
「努力じゃなくて、実行」
「はい」
「あと」
「まだあるのか」
「うちのこと、ちゃんと思い出してから来なさい」
「ちゃんと?」
「薬だけじゃなくて」
ニーナはそこで言葉を切った。
顔が赤くなる。
薬箱を抱える腕に、少し力が入った。
「……やっぱり何でもない」
「何でもなくないだろ」
「何でもないって言ってるでしょ、バカ」
軽く、俺の肩を小突いた。
痛い場所は外していた。
ちゃんと外していた。
そういうところが、ずるい。
彼女は橋へ向かった。
薬箱を抱えた背中は小さい。
だが、昨日より大きく見えた。
橋の上で、彼女は一度だけ振り返った。
手を振らなかった。
代わりに、薬箱を少しだけ持ち上げた。
俺も革袋を軽く叩いた。
痛み止めはもうない。
けれど、何かは残った。
◇
俺たちはラートブルックを出た。
今度こそ、オストマルク方面へ進む。
黒松川の橋は、背後で小さくなっていく。
川の音はしばらく聞こえていた。
やがて、丘陵の向こうへ消えた。
「殿下」
「分かってる。お懐が、また重くなったんだろ」
「今回は、一本減っております」
「そうだな」
「ですが、軽くなったようには見えません」
「俺もそう思う」
「痛み止めは、使って消えました。しかし、使った理由は残りました」
「お前、いいことを言う頻度が上がってないか」
「殿下のお懐が重くなるにつれ、私の所感も重くなっております」
「軽い所感も混ぜろ」
「では、昨夜の洗濯場遭難について」
「それは重い。主に俺の心臓に」
「頬ではなく?」
「今回は頬じゃない」
「進歩でございます」
「うるさい」
俺は笑った。
笑うと肩が少し痛んだ。
痛み止めはない。
痛いままだ。
だが、痛いまま歩ける。
痛みがあるから、まだ生きていると分かる。
ニーナの声が、革袋の底で静かに響いた。
最後の一本を、最後にしない。
俺たちは北西へ向かった。
地平線の向こう、オストマルクの空は、少しだけ煙っていた。
戦場の匂いが、また風に混じり始めている。
死にかけるのが俺の仕事だ。
だが、その前に、痛みを抱えて立つ時間がある。
その時間をどう使うかは、まだ俺が選べる。




