第九部 町医者の娘ニーナと、最後の痛み止めの話 ④ 〜支える前に〜
その夜、ラートブルックの宿場で、輸送隊は一晩泊まることになった。
宿は狭く、客室は足りない。
俺とリューリックは、馬小屋の隣の藁部屋を割り当てられた。
ニーナは医療輸送隊の女性用部屋に入った。
はずだった。
夜半、水を飲もうと外に出た俺は、またしても問題を起こした。
いや、今回は本当に水だった。
井戸は中庭にある。
その井戸の横に、洗濯場があった。
洗濯場には、ニーナがいた。
橋で汚れた包帯を桶で洗っている。
袖をまくり、髪をほどき、上着を脱いで、薄い肌着の肩だけを月明かりに出していた。
昼間の医療者の顔ではない。
疲れた町医者の娘の顔だった。
水に濡れた前髪が頬に貼りつき、いつもの早口が嘘みたいに静かだった。
俺は、すぐに引き返そうとした。
学んでいる。
カミラの件で、俺は学んでいる。
ニーナの件でも、とっくに学んでいる。
女性の私的領域に遭難する王族は史料上珍しいらしいので、三度目以降はさすがに避けるべきだ。
俺は一歩下がった。
足元の桶を蹴った。
ばしゃん。
水が派手にこぼれた。
ニーナが振り返った。
沈黙。
「……レオン」
「水を飲みに来た」
「井戸はそこ」
「知ってる。だから来た」
「じゃあ、なんで桶を蹴ったの」
「桶が俺の進路に政治的妨害を」
「桶に政治を背負わせないで」
ニーナは桶を拾おうとした。
俺も反射的に手を伸ばした。
同時だった。
手が触れた。
ニーナが体勢を崩す。
濡れた石床で、足が滑った。
「危ない」
俺は今度こそ、声を出してから手を伸ばした。
腰を支える。
前とは違う。
無言で掴んだわけではない。
ちゃんと、支えた。
ただ、支えた場所が近すぎた。
濡れた肌着越しに、背中の熱が手のひらへ伝わった。
ニーナの息が止まる。
俺の息も止まる。
月明かりの下で、二人だけが妙に近かった。
「……前よりは、まし」
ニーナが小さく言った。
「何が」
「持ち方」
「成長しただろ」
「あんたの成長、変なところばっかりだね」
「否定できない」
ニーナは俺の手を、そっと外した。
怒鳴らなかった。
殴らなかった。
それが逆に、心臓に悪かった。
彼女は桶を拾い、俺に背を向けたまま、濡れた包帯をぎゅっと絞った。
水が、ぽたぽたと桶に落ちる。
その音だけが、夜の洗濯場に残った。
「橋の上でさ」
「ああ」
「あんた、痛かったでしょ」
「まあな」
「痛み止め、もうなかったもんね」
「使ったからな」
「うん」
ニーナは、桶の中の水面を見たまま、少しだけ唇を噛んだ。
「それでも動いた」
「動かないと、橋が落ちた」
「そういうところ、ほんと腹立つ」
「褒めてるのか」
「半分くらい」
「残り半分は」
「心配」
その一言だけ、声が少し小さかった。
昼間の橋の上では聞こえなかった声だった。
薬箱を抱えて怒鳴る声でも、患者に指示を出す声でもない。
俺だけに向けられた、少し困った声だった。
「……お前、そういうことも言うんだな」
「言うよ。うちだって、人間だし」
「いつも薬箱を持って走ってるから、半分くらい薬草かと思ってた」
「殴るよ」
「今のは冗談だ」
「じゃあ、半分だけ許す」
ニーナは振り返った。
顔は赤い。
けれど、笑っていた。
あの診療所で初めて見た笑顔より、少しだけ大人びている。
でも、根っこは同じだった。
口の脇ではなく、目の脇にできる小さな笑い皺。
「ねえ、レオン」
「何だ」
「最後の一本、最後じゃなくする」
「作るのか」
「作る。もっと割れにくくて、持ち運びやすくて、必要な時にすぐ使えるやつ。あんたみたいなバカが、どこで死にかけても、誰かが時間を買えるように」
「俺が基準なのか」
「あんた以上に分かりやすい症例、なかなかいないもの」
「教材扱いか」
「うん。かなり優秀な悪い見本」
ニーナは、濡れた包帯を絞った。
水が桶に落ちる音がした。
その音がやけに近い。
俺は視線を逸らした。
逸らした先に、ニーナの濡れた肩が見えた。
さらにまずいので、空を見た。
「……今、見ないようにしたでしょ」
「見てない」
「見ないようにしたのは、見たのと同じ」
「お前、判定が厳しくなったな」
「前に学んだから」
「俺も学んだ」
「どこを?」
「支える前に、声をかける」
ニーナは、一拍置いて、ふっと笑った。
「そこは、ちょっとだけ合格」
「ちょっとだけか」
「うん。ちょっとだけ」
その瞬間、背後から声がした。
「殿下」
「言うな」
リューリックが、馬小屋の入口に立っていた。
「夜分に医療者の洗濯場で再会なさる王族は、史料上、さらに珍しいかと」
「だから言うな!」
ニーナは、顔を真っ赤にしたまま桶を抱えた。
「リューリックさん、記録しないで」
「未記録扱いにいたします」
「それ、絶対に記録してるよね」
「分類だけ残します」
「残さないで!」
その夜、俺は水を飲めなかった。
代わりに、頬ではなく心臓のあたりに、新しい痛みを得た。
痛み止めは、もうなかった。




