第九部 町医者の娘ニーナと、最後の痛み止めの話 ③ 〜次を作る〜
橋の上の騒動は、宿場町の男たちが駆けつけたことで終わった。
黒い上着の男たちは、一人が逃げ、一人が捕まった。
捕まった男の胸元に、円の中の目はなかった。
青いインクの印もない。
ただ、靴底に黒い松脂がついていた。
橋の下で作業するために使ったものだろう。
「どこの者だ」
リューリックが訊いても、男は答えなかった。
答えない口は、時に答えより多くを持っている。
だが、今は追えない。
橋は半壊し、負傷者がいて、医療輸送隊はまだ渡らなければならない。
追うべきものと、守るべきものが同時にある時、人は全部を選べない。
俺たちは、また守る方を選んだ。
それが正しいかどうかは分からない。
ただ、ニーナの薬箱の前で、追跡を優先する気にはなれなかった。
応急処置が終わる頃には、夕方になっていた。
宿場町ラートブルックの人々が板と縄を持ち寄り、橋の片側だけを補強した。
荷馬車は一台ずつ、ゆっくり渡ることになった。
ニーナは、最後まで薬箱を抱えていた。
俺は欄干に腰を預け、左肩を押さえていた。
痛い。
かなり痛い。
痛み止めはない。
自分でそう選んだくせに、体は正直に文句を言う。
「レオン」
ニーナが隣に来た。
顔に疲労が出ている。
それでも、目は強かった。
「肩、見せて」
「大丈夫だ」
「その台詞を言った人で、本当に大丈夫だった人、うちはほとんど知らない」
「お前、強くなったな」
「あんたが毎回、悪い見本を見せてくれるから」
「俺は教材か」
「うん。かなり分かりやすい失敗例」
彼女は俺の袖を切り、傷を見た。
深くはない。
ただ、古い肩の傷に響いている。
ニーナの指が、縫合痕の周りを慎重になぞった。
ヴェロニカの指とは違う。
ニーナの指は、怖くない。
いや、別の意味で怖い。
痛い場所を見つけると、容赦なく押す。
「痛い」
「痛いなら、そこ」
「分かってるなら押すな」
「確認」
「医療職は確認で人を殺す気か」
「死なない。たぶん」
「たぶんで診るな」
ニーナは少し笑った。
前の彼女に戻ったような笑いだった。
だが、その笑いの奥に、橋の上で痛み止めを折った時の顔が残っている。
「痛み止め、使った」
「ああ」
「あんたに渡した最後の一本だった」
「そうだな」
「怒らないの」
「怒る理由がない」
「あんたが持ってた薬だよ」
「薬は患者のものなんだろ」
ニーナの手が止まった。
彼女は俺を見た。
夕方の光が、彼女の頬に当たっている。
薬草の匂い。
川の冷たい匂い。
壊れた橋の木の匂い。
その全部の中で、ニーナの目が少しだけ潤んだ。
「……覚えてたんだ」
「お前が言ったんだろ」
「あんた、聞いてるようで、だいたい女の顔か胸か声を見てるから」
「そこまでひどくない」
「かなり近い」
「否定しきれない自分が嫌だ」
ニーナは、ふっと笑った。
それから、包帯を巻き始めた。
「最後の一本じゃなくする」
「どういう意味だ」
「次を作る。もっと良いものを。割れにくくて、運びやすくて、必要な時にすぐ使えるものを」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。でも、作る」
ニーナは包帯を結んだ。
結び目は小さく、固い。
「痛み止めは、痛みを消すためだけの薬じゃない。立つ時間を買う薬。今日、それをちゃんと見た」
「輸送兵を立たせるために使った」
「うん。それから、あんたが痛いまま動くところも見た」
「それは見なくていい」
「見る。うちは医療者だから」
「厳しいな」
「優しいだけじゃ、薬は使えない」
ニーナの声は静かだった。
前より、少し低く聞こえた。
その声を聞いて、俺は革袋の底が少し軽くなったことに気づいた。
あの硝子管はもうない。
なのに、軽くなったはずの懐が、なぜか重かった。




