第九部 町医者の娘ニーナと、最後の痛み止めの話 ② 〜時間を買う薬〜
橋を調べることになった。
なった、というより、ニーナが「このままじゃ薬が間に合わない」と言い、リューリックが「安全確認が必要です」と言い、俺が「じゃあ見るか」と言っただけだ。
その時点で、だいたい俺が一番危ない役になることは決まっていた。
「私も行く」
ニーナが薬箱を抱え直した。
「お前は待ってろ」
「待たない」
「橋が落ちたら、お前も落ちる」
「落ちないように歩く」
「そういう問題じゃない」
「レオン」
ニーナは、俺をまっすぐ見た。
あの診療所で、俺の肩の包帯をほどいた時と同じ目だった。
「医療の現場って、危ないから行かない、じゃ間に合わない時があるんだよ。あんたが戦場で死にかけるのと同じ」
「俺の悪癖を医療倫理に使うな」
「悪癖じゃなくて、症例として参考にしてるの」
「なお悪いわ」
リューリックが、静かに口を挟んだ。
「殿下、ニーナ殿は後方三歩で。薬箱は私が半分持ちます」
「半分って何だ」
「重い薬瓶と割れ物を私が。包帯類をニーナ殿が。殿下は前を歩き、壊れそうな板を先に踏んでください」
「俺だけ扱いが雑じゃないか」
「殿下は、壊れそうなものを見つける才能があります」
「踏んで壊す才能だろ」
ニーナが、そこで小さく笑った。
笑ったあと、すぐに視線を逸らす。
「あんた、前も棚の下で同じようなこと言ってた」
「前?」
「踏み台、っていうか、肩車っていうか」
「思い出すな」
「思い出してない」
「耳、赤いぞ」
「橋に集中しなさい、バカ」
俺は黙った。
勝てない。
この距離感が、少し困る。
初対面ではない。
ただの患者と医療者でもない。
あの時、俺たちは互いに、かなりまずいところまで知ってしまった。
だから近い。
近いのに、近づくと彼女が赤くなる。
赤くなるのに、逃げない。
その逃げないところが、また危ない。
俺たちは橋へ入った。
木板が、ぎし、と鳴る。
黒松川の流れが、下で白い泡を立てていた。
橋の中央には、傾いた荷馬車。
馬は外されていた。
荷台には穀物袋が積まれている。
ただし、袋の下に不自然な重さがあった。
「リューリック」
「はい。穀物ではございません」
「開けるか」
「開けましょう」
俺が袋に手をかけた瞬間、橋の下で何かが動いた。
木の軋む音。
それから、短い金属音。
リューリックが叫んだ。
「伏せてください!」
次の瞬間、橋板の一部が跳ねた。
仕込まれていた縄が切られ、荷馬車の車輪が沈む。
橋が大きく傾いた。
ニーナの足が滑る。
俺は反射的に手を伸ばした。
掴んだ。
掴んだ場所が、悪かった。
腰帯だった。
「きゃっ!」
「すまん!」
「謝るところ、そこじゃない!」
「落ちるよりはましだろ!」
「それはそうだけど、持ち方が最低!」
橋がさらに揺れた。
俺はニーナを引き寄せようとして、足を滑らせた。
結果、彼女を抱える形で橋板に倒れ込んだ。
薬草と石鹸と汗の匂いが、近い。
ニーナの髪が俺の顎に触れた。
胸元ではなく、肩と首筋の間に彼女の体温がぶつかる。
彼女の両手が、反射で俺の服を掴んでいた。
近すぎる。
あの日の診療所の床ほどではない。
だが、近すぎる。
ニーナの目が、丸くなった。
それから、じわじわ赤くなった。
「……また、この距離」
「事故だ」
「分かってる」
「分かってるなら、その薬箱で俺の顎を狙うな」
「これは反射」
「反射で殺すな」
ごん、と薬箱が俺の顎に入った。
視界に星が飛んだ。
橋の上で、俺は本日最初の負傷を得た。
「殿下、生存確認を」
「顎が生きてない」
「会話可能ですので、生存と判断します」
リューリックは、冷静に荷馬車の下を覗き込んでいた。
そこに、黒い上着の男が二人いた。
橋の支柱に縄をかけ、板を落とそうとしている。
俺たちに気づくと、短剣を抜いた。
「医療輸送を止めるために橋を落とすのか」
俺は顎を押さえながら立ち上がった。
「やることが雑すぎるだろ」
黒い上着の男は答えなかった。
代わりに、短剣が飛んできた。
俺は避けた。
避けたつもりだった。
左肩がわずかに遅れた。
短剣が袖を裂く。
血が少し出た。
「また!」
ニーナの声が橋の上で跳ねた。
「軽い!」
「軽い怪我を増やすやつが一番面倒なの!」
「今それ言うか!」
「言うよ! 患者教育は現場でもやる!」
リューリックが、一人目の男の手首を杖で打った。
短剣が落ちる。
俺は二人目に向かって走った。
走った瞬間、橋板が抜けた。
「うおっ!」
腰まで落ちた。
黒松川の冷たい風が下から吹き上げる。
橋板の穴に挟まる形になり、身動きが取れない。
最悪だ。
格好悪い。
しかも、黒い上着の男が、俺を見て一瞬止まった。
敵にまで困惑されるのは、なかなかつらい。
「殿下」
「何だ!」
「たいへんよく挟まっておられます」
「実況するな! 助けろ!」
黒い上着の男が短剣を構えた。
その時、橋の向こう側から叫び声が上がった。
荷馬車の下に、人がいた。
若い輸送兵だ。
車輪と梁の間に脚を挟まれている。
顔は真っ白で、唇が震えていた。
橋が落ちれば、彼は川へ落ちる。
俺より先に、ニーナが動いた。
「リューリックさん、あの人を!」
「ニーナ殿、橋が危険です」
「分かってる! でも、あのままじゃ脚が潰れる!」
ニーナは薬箱を開けた。
包帯、止血布、細い硝子管。
痛み止め。
俺の革袋の中にも、同じものが一本ある。
彼女の手が、ほんの一瞬止まった。
今ある薬を使えば、次がない。
使わなければ、目の前の男は痛みで暴れ、引き抜く前に脚を失う。
ニーナの顔から、赤みが消えた。
町医者の娘の顔になる。
「レオン!」
「何だ!」
「あんたの痛み止め、まだあるよね!」
「ああ!」
「使う!」
「使え!」
俺は革袋を外した。
橋板に挟まったまま、なんとかニーナへ投げる。
投げた革袋が、橋板の上を滑った。
ニーナが受け止める。
彼女は袋を開け、迷わず底から硝子管を取り出した。
俺に渡された、最後の痛み止め。
ずっと黙っていた一本。
ニーナはそれを見た。
一瞬だけ、目が揺れた。
けれど、すぐに折った。
「これは、時間を買う薬」
「ああ」
「逃げる時間。縫う時間。誰かを運ぶ時間」
「ニーナ!」
「分かってる!」
彼女は輸送兵のそばに膝をついた。
薬を打つ。
輸送兵の呼吸が、少しだけ整った。
その瞬間、黒い上着の男がニーナへ向かって動いた。
俺は橋板に挟まったまま、近くの木片を掴んだ。
投げた。
木片は男の後頭部に当たらず、なぜか彼の耳に当たった。
「痛っ!」
「耳かよ!」
「殿下、狙いとしては微妙ですが、効果はございました」
「うるさい!」
リューリックが男の膝を払う。
男が倒れる。
もう一人が橋の縄を切ろうとする。
俺は歯を食いしばり、橋板から体を引き抜いた。
左肩に痛みが走る。
鋭い。
息が止まりそうになる。
痛み止めは、もうない。
当たり前だ。
使った。
必要な相手に。
俺は痛みを抱えたまま、男に飛びついた。
きれいな戦いではなかった。
腰からぶつかり、二人で転がり、橋板の上を泥まみれになって滑る。
男の拳が頬に入った。
俺の膝が相手の腹に入った。
どちらも格好悪い。
だが、格好悪いままでも、人は止められる。
「殿下、縄を!」
リューリックの声。
俺は男の腕を押さえ込みながら、足で縄を蹴った。
縄が川へ落ちる。
橋の揺れが、少しだけ収まった。
その間に、リューリックと輸送隊の男たちが、挟まれた兵を引き抜いた。
ニーナが止血布を巻く。
顔は汗で濡れている。
髪も乱れている。
けれど、手は震えていなかった。
「圧迫続けて! 足先、分かる? うちの声、聞こえる? 寝ないで。まだ寝るには早いよ!」
輸送兵が、うっすら目を開けた。
「……痛い」
「痛いなら生きてる。文句はあとで聞く」
ニーナの声が、橋の上に強く響いた。
その時、俺は思った。
ああ、この子は、もう町医者の娘だけじゃない。
自分の手で時間を買う側に立っている。




