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第九部 町医者の娘ニーナと、最後の痛み止めの話 ① 〜橋の手前〜

痛みは、敵ではない。


 そう言ったのは、町医者の娘だった。


 痛みは、体がまだ自分のものである証拠だ。


 痛みがあるから、危ない場所が分かる。


 痛みがあるから、逃げるべき時が分かる。


 痛みがあるから、まだ生きていると分かる。


 だから、痛みを消す薬は、奇跡ではない。


 痛みを消す薬は、時間を買う薬だ。


 逃げる時間。


 縫う時間。


 誰かを運ぶ時間。


 あるいは、死ぬはずだった者が、もう一度だけ立つ時間。


 ニーナは、そう言った。


 俺に最後の痛み止めを渡した時、彼女は「使うな」とは言わなかった。


 「無駄に使うな」とも言わなかった。


 ただ、必要な時に使え、と言った。


 その一本は、俺の革袋の底で、ずっと音を立てずに残っていた。


 セラの包帯。


 マレーナの薬草袋。


 ヴェロニカの止血粉。


 ハンナの馬蹄鉄。


 リータの白い布。


 ヴィクトルの青い活字。


 ヴェロニカが写した死者の名。


 それらに挟まれて、細い硝子管は黙っていた。


 黙っているものほど、使う時が怖い。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ただの傭兵。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。


 この日、俺はようやく、痛み止めが何を止めて、何を止めないのかを知った。



 ◇



 カステリオを出て、北西へ向かった。


 オストマルク方面。


 地図の上では、そう呼ばれる土地だった。


 実際の街道は、地図ほどきれいではない。


 丘陵が折れ、谷が入り、鉱山町から流れてきた荷馬車の轍が泥になり、ところどころに崩れた石垣が残っている。


 夏の終わりの風は乾いていたが、谷底の川だけは冷たそうだった。


 川の名は、黒松川。


 水面は暗く、流れは速い。


 その川にかかる木橋を越えれば、ラートブルックという宿場町に入る。


 地元の者は、橋の宿、と呼ぶらしい。


 橋を守るために町ができ、町を守るためにまた橋が補修される。


 つまり、橋が落ちれば町も半分落ちる。


「殿下、前方で止まっております」


 リューリックが、馬の首を軽く叩きながら言った。


「戦か」


「今のところ、戦闘の気配はありません。ただ、怒鳴り声と薬草の匂いがします」


「薬草の匂い?」


「はい。殿下のお懐から漏れている匂いではなく、前方からです」


「俺の懐、そんなに薬草くさいか」


「マレーナ殿の袋、ヴェロニカ殿の止血粉、リータ殿の布、ハンナ姐さんの獣用軟膏、その他諸々が同居しておりますので、旅の薬棚として十分な香りでございます」


「俺の懐を薬局にするな」


「すでに半分ほど薬局です」


 リューリックの言葉どおり、橋の手前には人が詰まっていた。


 馬車の車輪が泥にはまり、荷台の一部が傾いている。


 布をかぶせた木箱がいくつも積まれていた。


 箱には医療用の印。


 包帯、消毒酒、痛み止め、乾燥薬草。


 オストマルク方面へ向かう臨時医療輸送隊らしい。


 その横で、小柄な女が怒鳴っていた。


 茶色の髪を後ろで結び、袖をまくり、薬箱を抱えている。


 小柄なのに、声はよく通った。


「その箱、逆さにしないで! 硝子管が割れたら、あんたの足より先にうちの心が折れるから!」


 俺は、馬上で固まった。


 聞き覚えのある声だった。


 リューリックが、俺より少し先に言った。


「ニーナ殿ですね」


「……だな」


「殿下」


「何だ」


「お顔が、少し浮ついております」


「旧友に会っただけだ」


「医療職の女性に再会した時の殿下は、旧友というより再発症でございます」


「病気扱いするな」


「慢性化しているかと」


 その時、ニーナがこちらを向いた。


 目が合った。


 彼女の表情が、一瞬で変わった。


 驚き。


 安堵。


 それから、怒り。


 最後に、町医者の娘としての厳しい目。


 彼女は薬箱を抱えたまま、ずかずかと近づいてきた。


「レオン」


「久しぶりだな、ニーナ」


「久しぶり。……で、どこ怪我したの?」


「再会の第一声がそれか」


「あんたの場合、挨拶より出血確認が先なの」


「今回は無傷だ」


 ニーナは、俺を上から下まで見た。


 左肩。


 頬。


 手。


 腰。


 膝。


 視線が遠慮なく動く。


 町医者の娘の視線は、妙に恥ずかしい。


 裸を見られるより、体の壊れやすいところを全部覚えられている感じがする。


「左肩、まだ完全じゃない。頬に薄い打撲。右手の掌に古い擦り傷。歩き方を見ると、右膝も一回やってる」


「お前、怖いな」


「怖いのは、診るたびに怪我の履歴が増えてるあんたの方だよ」


 ニーナは俺の革袋を見た。


 目が少し細くなる。


「……痛み止め、まだ持ってる?」


「ああ。使ってない」


「ふん」


 ニーナは、そこで一度、口を尖らせた。


 怒っているようで、少しだけ安心している顔だった。


 その「ふん」は、ヴェロニカの「ふん」とは違う。


 もっと近い。


 もっと熱い。


 そして、少しだけ照れている。


「使わなかったのに、ちゃんと持ってるんだ」


「ああ」


「……そう」


「礼を言うべきか?」


「違う。礼じゃないでしょ。使ってないんだから」


「じゃあ何だ」


「確認」


 ニーナはそう言って、薬箱を持ち直した。


 その動作の途中で、彼女の目が一瞬だけ俺の胸元から肩へ逃げた。


 あの日の診療所。


 棚の薬瓶。


 肩車。


 床に転がった二人。


 あの、どうにも言い訳できない事故。


 たぶん、同じものを彼女も思い出した。


 耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっていた。


「……何見てんの」


「見てない」


「見てた」


「見てない。思い出しただけだ」


「それを見てるって言うのよ、バカ」


 薬箱の角が、俺の脇腹に軽く入った。


 痛い。


 だが、懐かしい痛みだった。


 リューリックが横で、たいへん静かな顔をした。


「殿下、再会から負傷までが早うございます」


「記録するな」


「未記録扱いにいたします」


「それは記録する時の言い方だろ」


 ニーナは、リューリックを見て、少しだけ会釈した。


「リューリックさんも、久しぶり」


「お久しぶりです、ニーナ殿」


「レオンの見張り、まだ続けてるんだ」


「家令の家系の副業の本義として、終身事業に近づいております」


「大変ね」


「はい」


「そこは否定してやれ」


 二人とも否定しなかった。


 少し傷ついた。


「お前、どうしてここにいる」


「オストマルク方面の臨時救護所へ、薬を運んでるの。父さんの古い伝手から頼まれた。ほんとは別の人が行くはずだったんだけど、腰をやったから、うちが代わり」


「それで、お前が薬の馬車を仕切ってるのか」


「仕切らないと壊されるでしょ。薬って、作った人間が一番壊れ方を知ってるから」


「守り方じゃなくて?」


「壊れ方を知らないと、守れないの」


 リューリックが、静かに頷いた。


「医療輸送としては、たいへん正しい判断です」


「ありがとうございます。……でも、今まさに困ってるところです」


 ニーナは橋を振り返った。


 黒松川にかかる木橋は、古い。


 片側の欄干が壊れ、中央付近の板が沈んでいる。


 雨で腐ったのか、車輪が深くめり込んだ跡があった。


 橋の向こうには、宿場町ラートブルックの赤茶色の屋根が見える。


 だが、馬車が一台、橋の途中で止まっていた。


 荷台が傾き、車輪が橋板に噛んでいる。


 そのせいで、後ろの医療輸送隊が進めない。


「橋番は?」


「いるはずなんだけど、今朝から姿が見えないの」


 ニーナの声が少し低くなった。


「それに、橋板の割れ方が変なの。古くなって折れたっていうより、先に切れ目を入れられてたみたいに見える」


 リューリックが橋へ目を向けた。


 彼の顔が、少しだけ硬くなった。


「殿下」


「うん」


「橋の下に、人がいる可能性がございます」


「敵か」


「断定はできません。ただ、荷車の車輪を止めて、医療輸送を足止めする意図は感じます」


「また面倒なものに当たったな」


「殿下の進路で、面倒でないものに当たる確率は低めです」


「俺のせいか」


「半分ほどは」


「半分もあるのか」


 ニーナが、俺たちの会話を聞きながら眉を寄せた。


「レオン、また何かに巻き込まれてるの?」


「今回は、お前の薬馬車の方が先に巻き込まれてる」


「薬は患者さんのもの。うちのものじゃない」


 その言い方が、少し刺さった。


 薬は患者のもの。


 痛み止めは、持ち主のものではなく、使うべき相手のもの。


 革袋の底で、あの硝子管がまた黙った。


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