第八部 外科医ヴェロニカと、書かれる名前の話 ⑦ 〜呼ばれる名〜
ヴェロニカとの別れは、町の診療所の裏だった。
彼女は出発前、ひとりで荷物をまとめていた。
軍医の鞄。
検分の帳簿。
血のついていない手袋。
その全部が、彼女の周囲にきちんと置かれている。
近づくと、彼女は振り返らずに言った。
「足音がうるさい」
「俺だと分かったのか」
「お前は、迷いながら近づく時ほど足音が大きい」
「俺の足音も分類されてるのか」
「医者は歩き方を見る。傷をかばう者は、嘘をついても足に出る」
「俺は何をかばってる」
「今日は、肩ではない」
ヴェロニカは振り返った。
手に、小さな紙束を持っている。
正式な公文書ではない。
薄い紙に、数行ずつ、手書きで何かが写されていた。
「何だ、これ」
「名だけを写した私的な控えだ。正式な検案録は渡せない」
「死者の名か」
「ええ。坑夫たちの名。ヘンリク・ヴォダの名もある」
「俺が持つのか」
「お前は、覚えるのが得意らしい」
「誰から聞いた」
「カミラから少し。ヴィクトルという名も聞いた」
「……」
「追わなくていい」
「ええ」
「ただ、忘れるな」
俺は紙束を受け取った。
軽い。
薄い。
だが、手に乗せた瞬間、指が少し沈むような気がした。
ヴェロニカは俺の顔を見た。
それから、いつものように少し目を細める。
「また重くなった顔をしている」
「最近、懐と顔が重さを隠せなくなってきた」
「いいことだ」
「そうか」
「軽い男は、すぐ死ぬ。重い男は、死ぬ時に少し粘る」
「俺は粘るために重くなってるのか」
「少なくとも、私が縫う価値は増える」
「ひどい励ましだ」
「励ましていない。医者の所見だ」
彼女は一歩近づいた。
俺の襟元を掴む。
力は強くない。
けれど逆らえない。
この女に襟を掴まれると、俺の体は前回の記憶を勝手に思い出す。
「ヴェラ」
「動くな」
「また噛む気か」
「人前では噛まない」
「前は人前で噛んだだろ」
「あれは教育だ」
「何の」
「昼の私と夜の私の区別だ」
「どっちも怖い、だったな」
「正解を覚えているなら、今日は噛まない」
そう言って、彼女は俺の耳元ではなく、肩の縫合痕のあたりを軽く指で押した。
痛くはない。
だが、体の奥が勝手に思い出す。
戦場。
手術台。
夜。
彼女の声。
「もう一度、肩を縫う日が来るかもしれない」
「ああ」
「その時は、立てる傷で来い」
「立てない傷で行ったら」
「引きずってでも立たせる」
「怖い医者だ」
「生きている患者には、怖い医者で十分だ」
ヴェロニカは手を離した。
少しだけ笑う。
その笑いは、夜の女ほど濃くなく、昼の外科医ほど冷たくもなかった。
その中間にある、彼女だけの笑いだった。
「死に損なう前に来い」
「努力する」
「努力ではない。実行しろ」
「最近、女たち全員がそれを言う」
「できていないからだ」
返す言葉がなかった。
ヴェロニカは馬車へ向かった。
背中はまっすぐだった。
軍医の背中。
外科医の背中。
そして、夜には別の顔を持つ女の背中。
彼女は振り返らなかった。
振り返らない女は、たいてい強い。
だが、振り返らないことが、別れを軽くするわけではない。
むしろ、重くなる。
◇
ハンナとの最後の会話は、納屋の前だった。
ラバが一頭、首を伸ばして俺の革袋の匂いを嗅いでいる。
犬は土間で寝ている。
片足の鳥は、止まり木の上で相変わらず片足で立っていた。
「行く」
「行きな」
ハンナはそれだけ言った。
いつものように、余計な言葉は少ない。
俺は革袋の上から馬蹄鉄の位置を確かめた。
「馬蹄鉄、まだ持ってる」
「知ってる」
「重い」
「覚えとけ」
「ああ」
ハンナはラバの首を撫でた。
それから、リューリックを見た。
「花、ありがとよ」
「前金でございます」
「しつこいね、あんたも」
「家令の家系の副業の本義として、約束は分割払いでも管理いたします」
「ふん。じゃあ、本払いを待ってる」
「畏まりました」
ハンナはそれ以上、何も言わなかった。
言わない方が、重いことを知っている女だった。
◇
俺たちはカステリオを出た。
今度こそ、北西へ向かう。
オストマルク方面。
地下地図の線が伸びている方角。
カラドリンの山影が、また遠くに見えた。
街道は乾いている。
夏の終わりの風が、馬のたてがみを揺らした。
革袋の中には、新しい紙束が加わった。
名だけを写した私的な控え。
公文書ではない。
だが、そこには人がいた。
ヘンリク・ヴォダ。
他にも、死んだ坑夫たちの名があった。
ハンナの馬蹄鉄。
リータの白い布。
ヴィクトルの青い活字。
ヴェロニカの紙束。
青銅の札。
坑道の地図。
止血粉と痛み止め。
薬草袋。
懐は、また重くなった。
リューリックが横で言った。
「殿下」
「分かってる。お懐が、また重くなったんだろ」
「はい。ただ、今回は少し違います」
「何が」
「今回は、物の重さではなく、呼ぶべき名の重さでございます」
「お前、たまに本当にいいことを言うな」
「たまに、でございますか」
「常に言うと調子に乗る」
「殿下が言えた義理ではございません」
「うるさい」
「左様で」
俺は少し笑った。
笑うと、頬の青いインクの跡がもう引きつらなかった。
やっと落ちたらしい。
けれど、落ちたからといって、なかったことにはならない。
インクは皮膚から消える。
紙に残る。
紙が燃えれば、人の中に残る。
人が死ねば、また誰かが書く。
そうやって、名は、ときどき消えずに済む。
俺は革袋の上から、紙束の角を押さえた。
小さな角が、指に当たる。
痛くはない。
ただ、忘れるな、と言っている。
俺たちは街道を進んだ。
オストマルクの影が、地平線の向こうにある。
その先に何があるのか、まだ分からない。
ただ、誰かが見ている。
誰かが見られている。
誰かが、見せようとしている。
その全部の間を、俺たちは進む。
死にかけるのが俺の仕事だ。
けれど、死にかけたあとに何を持って立つかは、たぶん、まだ俺が選べる。
◇
──Another Side レイラ──
古い名簿を見直している者がいるそうです。
そう告げたのは、村に出入りする行商人だった。
行商人は干した果物と針と糸を売り、代わりに古い布と噂を買っていく。
この村では、噂にも値段がある。
安い噂は銅貨一枚。
高い噂は、沈黙を添えて渡される。
その日の噂は、沈黙つきだった。
レイラは、小さな家の奥で、古い毛布を畳んでいた。
窓の外には、夏の終わりの畑が広がっている。
遠くで子どもたちが走っていた。
ここでは、彼女は別の名で呼ばれている。
村人たちは、その名を疑わない。
疑わないようにしてくれているのかもしれない。
どちらにせよ、助かっている。
「どこの名簿ですか」
レイラは訊いた。
声は小さかった。
小さくする癖が、もう体に染みついている。
「旧リュカリオンの避難民名簿だそうです。どこの誰が見直しているかまでは分かりません。ただ、北の方から、いくつかの名を照合している者がいる、と」
「北」
「はい。帝国の北ではなく、もっと西寄りの北です。鉱山町を抜ける道のあたりだと聞きました」
鉱山町。
名簿。
照合。
その三つの言葉が、レイラの胸の奥でゆっくりと重なった。
兄の名は、どこかの紙に残っているのだろうか。
レオン・ヴァン・リュカリオン。
その名を声に出さなくなって、何年になるだろう。
生きていると信じている。
けれど、信じることと、声に出すことは違う。
声に出すと、願いは少しだけ現実に近づく。
現実に近づいた願いは、壊れた時に痛い。
だから、レイラは長い間、兄の名を胸の中だけで呼んでいた。
行商人が去ったあと、彼女は戸棚の奥から小さな箱を出した。
箱の中には、古い紙片がある。
リュカリオン公国の古い家臣名簿。
生きている者。
死んだと聞いた者。
行方不明の者。
欄外に、彼女自身が小さく書き足した印がいくつもある。
紙は薄い。
けれど、何度も開かれて、端が柔らかくなっていた。
レイラは、空白の一角に指を置いた。
そこには、まだ何も書いていない。
書けない名がある。
書けば、それが願いではなく、探索対象になってしまう。
探索対象になれば、死の報告も受け取らなければならない。
それが怖かった。
けれど、いつまでも怖がっているわけにはいかない。
レイラは息を吸った。
小さく、声にした。
「レイラ・ヴァン・リュカリオン」
自分の名だった。
この村では使わない名。
隠してきた名。
それから、もう一つ、声には出さずに唇だけを動かした。
兄の名。
レオン。
窓の外で、風が畑を渡った。
紙の端が少しだけ揺れた。
レイラは、空白の欄にまだ何も書かなかった。
ただ、インク壺の蓋を開けた。
それだけで、今日のところは十分だった。
名は、いつか書かなければ消える。
けれど、書く前に、まず呼ばなければならない。
彼女は、もう一度だけ、自分の名を胸の中で呼んだ。
レイラ・ヴァン・リュカリオン。
消えていない。
まだ、消えていない。
──第八部 了




