第八部 外科医ヴェロニカと、書かれる名前の話 ⑥ 〜国に使われる〜
翌朝、町中に新しい紙が貼られていた。
青いインクだった。
ヴィクトル本人はいない。
だが、彼の組織は動いていた。
紙には、短く書かれている。
──カステリオの査問は、人民監察官の名と、人民の名を賭けた裁判だった。
──カミラ・パヴェル監察官は、ノヴァ・ローマに召喚される。
──ただし、彼女が記した名は、書類に残る。
町の人々は、その紙を見た。
坑夫が見た。
坑夫の妻が見た。
納屋へ向かう子どもが見た。
誰も声に出して読まない。
だが、唇が少しだけ動いている者がいた。
文字を、体の中へ入れている。
「地下は、まだ動いております」
リューリックが言った。
「助けない。孤立させない、か」
「はい。ヴィクトル殿の流儀でございます」
「カミラは怒りそうだな」
「怒るでしょう」
「でも、読むだろうな」
「読むでしょう」
俺は紙を見た。
青いインクは、いつも少しだけ滲んでいる。
その滲みが、地下の人間たちの息のように見えた。
◇
その日の午後、リューリックが妙な男を見つけた。
中央監察団の護衛の一人だった。
若い。
二十代後半くらい。
黒い髪を短く刈り、左の頬に薄い傷がある。
見た目はただの護衛だ。
だが、動きが他の護衛と違った。
警備のために周囲を見るのではなく、町の角、古井戸、酒場の裏口、廃倉庫の戸口を、順番に目で測っている。
記憶している。
地図を持っていないのに、地図をなぞる歩き方だった。
「殿下」
「うん」
「地図の線と、彼の動きが合います」
「ガリレオで預かった地下地図か」
「はい。完全ではありませんが、井戸小屋から旧紙問屋、酒場裏へ抜ける線を、彼は知っているようです」
「組織か」
「断定はできません」
「断定しないのか」
「ここで断定すると、我々は追うしかなくなります」
「追いたくないのか」
「追えば、カミラ監察官の査問より深い穴に落ちます」
「地下だけにな」
「殿下、今の冗談は状況に対して軽すぎます」
「すまん」
男は古井戸の前で一度だけ立ち止まった。
井戸の縁に手を置く。
水を覗くふりをして、石の継ぎ目を確認している。
それから、何事もなかったように監察団の宿へ戻っていった。
「中央の中にも、同じ地下線を使う者がいる可能性はございます」
リューリックは低く言った。
「カミラの側か」
「分かりません」
「ヴィクトルの側か」
「それも分かりません」
「円の中の目か」
「可能性はございます」
「全部分からないな」
「はい。ですが、顔は覚えました」
「追うのか」
「追いません。今は覚えるだけです」
覚えるだけ。
それは最近、何度も聞いた言葉だった。
忘れない。
覚える。
追わない。
書く。
人間は、全部を追うほど強くない。
だから、せめて忘れない。
それでも十分重い。
◇
カミラがカステリオを発つ前に、俺は彼女と話した。
町の外れ、監察団の馬車の前だった。
彼女は旅装に変わっていた。
灰色の上着は同じ。
ただ、腰の鞄が少し増えている。
ノヴァ・ローマへ向かうための支度だ。
「行くのか」
「ええ」
「権限停止、だったな」
「そうだ」
「平気か」
「平気ではない」
カミラは即答した。
それが少し意外だった。
「平気ではないが、折れてはいない」
「中央でどうなる」
「減給、降格、地方左遷、監視付き勤務。いくつか候補はある」
「笑えない候補ばかりだな」
「笑わせるための政治ではない」
「それはそうだ」
カミラは俺の顔を見た。
青いインクの跡は、ようやくかなり薄くなっていた。
「インク、落ちたな」
「おかげさまで」
「つまらない」
「監察官が人の顔の汚れを惜しむな」
「派手な目印としては便利だった」
「全員、俺を目印扱いするな」
カミラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑った、と言うには薄い。
でも、確かに少し柔らかかった。
すぐに戻った。
「レオン」
「何だ」
「ありがとう、と言うのは、私の方かもしれない」
「俺は何もしてない」
「何もしなかった。それが良かった」
「……」
「余計なことを言わず、余計な正義を振りかざさず、ただ見ていた。あの場では、それでいい」
「俺にできることがなかっただけだ」
「できることがないと認めるのは、意外と難しい」
彼女は馬車の方へ一歩進んだ。
それから、振り返った。
「国家は、まだ私を信じている」
「だから、まだ使われる、か」
「ええ」
「毎日、疑っているんだろ」
「ええ。疑うことをやめたら、その時は私が誰かを潰す側になる」
「……」
「お前も、覚えておけ。国を取り戻したい者ほど、国に使われる」
俺は返事ができなかった。
カミラは、それ以上言わなかった。
ただ、馬車に乗る直前、ふと低い声で付け足した。
「あの夜の件は、議題にない」
「この別れ際でそれを言うのか」
「言っておかないと、顔がうるさい」
「俺の顔は、もう黙ってるだろ」
「いいや。まだ騒いでいる」
「どこがだ」
「目だ」
カミラはそう言うと、馬車に乗った。
最後に一瞬だけ、窓の奥からこちらを見た。
そこに羞恥はもうほとんどなかった。
けれど、完全に消えてもいなかった。
硬い女が、自分の柔らかい部分を一度見られ、それでも硬いまま立っている。
その姿が、妙に格好よかった。
馬車が動き出す。
ノヴァ・ローマへ。
中央へ。
使われながら、疑う場所へ。




