第一部 主任看護師セラと、ある間諜の話 ⑤~賞金首、金貨千枚~
夜明け前。
俺は寝台に戻った。
肩の傷は、また縫い直されていた。
縫ったのは、セラさんだった。
彼女は、最後の包帯を巻きながら、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
包帯が結ばれた。
その結び目が、いつもよりほんの少しだけ強かった。
たぶん、それが彼女のせいいっぱいの文句だった。
「……あなたは」
セラさんが低い声で言った。
「何だ」
「何者なんですか」
俺は、しばらく答えなかった。
それから、
「ただの傭兵だよ」
と、言った。
セラさんは俺の目を見た。
探るような視線ではない。
もう、半分ほど納得している目だった。
「……そうですか」
「そうだ」
セラさんは、ゆっくりと立ち上がった。
いつものように、無駄のない動きで。
立ち上がる時、ほんの一拍だけ、彼女の指が俺の枕元のシーツに触れた。
手の温度が、シーツに残った。
温度は、たぶん半日くらい残る。
彼女は病棟の扉のところまで歩いた。
そこで、一度だけ振り返った。
「レオンさん」
「何だ」
「次の戦場で、また馬鹿みたいに死にかけて、また誰かに包帯を巻かれてください」
「ああ」
「それが、あなたの仕事なら」
「それが、俺の仕事だ」
セラさんは、もう振り返らなかった。
夜明けと共に、俺はリューリックと病院を出た。
軍医が、こっちを見送る視線を背中で受けた。
セラさんは、見送らなかった。
窓辺に立っていただけだった。
俺は、振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん足が止まる。
止めたら、たぶん戻ってしまう。
戻ったら、もう傭兵ではいられない。
だから、振り返らなかった。
◇
リヴェンの街道を、リューリックと並んで歩いた。
風が冷たい。
けれど、もう春のはじまりだ。
街道の両側には、まだ枯れた色のままの野が広がっていた。緑が出始めているのは、地面の低いところだけだ。馬車も、人もいない。早朝の街道は、世界が朝の準備を終える前の、奇妙な空白の時間に包まれていた。
しばらく、俺たちは黙って歩いた。
風の音と、ブーツの底が泥を踏む音だけが聞こえていた。
「……いい人だったな」
ぽつりと、俺は言った。
「でしょうね」
「また、惚れるだろうな。次の戦場でも」
「でしょうね」
「お前、もうちょっと気の利いた返事はないのか」
「家令の家系の副業の本義として、主君の恋路には口を出さないこととなっております」
「いつから、そんな本義が」
「先程、追加いたしました」
「お前の本義、後付けが多すぎる」
「家令の家系の副業の本義は、現場で更新されるものでございます」
「ふん」
俺たちは、それ以上、セラさんの話はしなかった。
代わりに、風の音と、足音と、街道脇に生え始めた小さな草の名前を、リューリックがぽつりぽつりと教えてくれた。
知らない草の名前を、覚えてどうするのかと思った。
覚えても、たぶん、明日には忘れる。
覚えていることを、忘れる。
それが、傭兵の特権でもあった。
街道の脇に、古い掲示板があった。
色褪せた紙が何枚か打ち付けられている。
その中の一枚。
俺は、目だけでそれを見た。
手書きの墨。
日付は、三年前。
文字は、色褪せて、半分しか読めなかった。
だが、半分でも十分だった。
リュカリオン公国の遺児・賞金金貨千枚。
名前と、年齢のみ。
顔は描かれていなかった。
たぶん、絵を描けるほどの情報が、帝国側にもないのだろう。
俺は見た。
リューリックも見た。
俺たちは、何も言わずに通り過ぎた。
慣れていた。
慣れすぎて、もう何も感じない。
それが、たぶん、いちばん重い感想だった。
懐の中で、青銅の札が、わずかに鳴った。
目の図案を持つ、誰かの札。
俺は、まだ、その意味を知らない。
知らないが、知らないことがいちばん嫌な情報だと、さっき自分で言ったばかりだった。
その嫌な情報を、俺は懐に入れて歩いている。
──春先の泥が、まだ、ブーツの底を吸って離さなかった。
──第一部 了
第1部いかがでしたか。物語の最初の最初です。これから各地をレオンとリューリックが巡りながら、各地で様々な出来事に巻き込まれ定期ます。次はどんなヒロインが出てくるか、お楽しみにしてください!




