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第一部 主任看護師セラと、ある間諜の話 ④~目の図案~

 静かな夜だった。


 その夜、ついに例の商人が動いた。


 俺が動いたのは、夜半過ぎ、廊下で軋む床板の音を聞いたからだった。


 病棟の患者は寝ている。


 看護師の交代までは、まだ二時間ある。


 軋む床板は、靴底が薄い者の歩き方だった。


 商人だ。


 俺は寝台を抜け出した。


 痛みは、まあ、無視できる範囲。


 肩の傷が、わずかに引きつる。


 無視できる範囲と、無視して動く範囲は、たぶん、ちょっと違う。


 だが今夜は、ちょっと違う方を選ぶ。


 病棟の戸を、音を立てずに開けた。


 廊下の先、軍医の控室の前に、男が立っていた。


 商人。


 手には、鍵束。


 鍵束、ね。


 納品商人にしては、随分と立派な代物だ。


 俺は柱の影に立った。


 ほぼ同時に、向こうの角から、リューリックが現れた。


 目が合った。


 うなずいた。


 言葉は必要なかった。


 三年も顔を突き合わせていれば、互いの目で、たいていの作戦は決まる。


 商人は、軍医の控室の鍵を解いて、中に入った。


 俺たちは、戸の両側に立った。


 数えた。


 ……三十秒。


 俺はリューリックに目で合図して、戸を開けた。


 商人が机の前で振り返った。


 机の上には、紙が広げられていた。


 搬送記録。


 薬品入庫予定。


 軍医の巡回経路。


 そして、負傷者のなかで一人、士官の名前にだけ丸が打たれている。


 商人は笑った。


「やあ。お早いお出ましだ」


 声が、商人のものではなかった。


 軽い。


 皮肉のある、訓練された声。


 次の瞬間、商人の右手から、納品商人が持つはずのない刃物が現れた。


 短い、両刃。


 暗殺者用。


 リューリックが一歩前に出た。


「殿下、お下がりください」


「下がるだと」


「その体で何かできますか。早く下がってください」


「分かった。下がればいいんだろう」


 俺はリューリックの勢いに押され、言われるがまま後ろに下がった。


 だが、部屋からは出ず、戸口は塞いだ。


 商人と、リューリックの剣がぶつかった。


 予想以上だった。


 商人は、本物の使い手だった。動きが戦場の兵士のものじゃない。もっと早く、もっと無駄がない。暗殺者の動き。


 リューリックは公国随一の剣だ。


 だが、相手の動きは初めて見るタイプらしく、最初の一合は読み切れていない。


 二合目、三合目で、リューリックが圧し始めた。


 当然だ。


 こいつは本気を出せば化け物だ。


 そう、本気を出せば。


 だが、四合目、商人が床を蹴って、俺のいる戸口の方に向かってくる。俺は引き留めようとして手を挙げた瞬間、肩の痛みで動けなくなった。


 その隙に商人が俺を突き飛ばし、控室を飛び出していった。


 廊下を、病棟側へ走る。


 ……あ。


 俺の血が、冷たくなった。


「リューリック、病棟だ!」


「分かっていますッ!」


 俺はリューリックに商人の行先を伝えると、肩の痛みに気づかないふりをして立ち上がり、二人の後を追った。


 肩の傷が、走るたびに引きつる。


 無視した。


 商人は、病棟の戸を開けた。


 俺の隣の寝台。


 少年兵の寝台の脇に滑り込む。


 少年兵は眠っていた。


 商人は、少年兵の喉に刃物を当てた。


「ここから一歩動けば、この子は死にますよ」


 声が、いつの間にか商人のものに戻っていた。


 商売の声に。


 俺は止まった。


 リューリックも止まった。


 商人は薄く笑った。


「あなた方、追いつくのが早い。素人じゃありませんね」


「あんたも、商人じゃないだろ」


「商人の真似は得意でして」


 俺は商人の手元を見た。


 刃物は、少年兵の喉にぴったり当てられている。


 その時、視界の隅で影が動いた。


 病棟の奥。


 セラさんだった。


 声を出さなかった。


 叫ばなかった。


 慌てなかった。


 目だけで、近くの看護補助に合図する。


 指先だけで、奥の患者の寝台を動かす順番を示す。


 一人。


 もう一人。


 寝台が、床板を軋ませないぎりぎりの速さで、病棟の端へ寄っていく。


 商人は少年兵を押さえていた。


 だから、セラさんの仕事を止められなかった。


 主任看護師の仕事を、こいつは知らなかった。


 少年兵が、薄く目を開けた。


 寝起きの混乱した目だった。


 それから、状況を理解した。


 目だけが、俺を見た。


 兄ちゃん、続き、まだ聞いてないからな。


 少年兵の口は動いていなかった。


 だが、俺にはそう聞こえた。


 俺の中で、何かがかちりと回った。


 計算が消えた。


 いつものゲスな計算が、その瞬間、消えた。


 商人は、刃物を引こうとした。


 その動きが、俺には信じられないほど遅く見えた。


 俺は左手で、寝台脇に置かれていた松葉杖を掴み、商人の手首に向かって振り払った。


 骨と杖がぶつかる音がした。


「ッ!!」


 言葉にならない声のあと、商人の刃物が手からこぼれ落ちた。


 次の瞬間、リューリックが商人の背後に回り、剣の柄を首筋に叩き込んだ。


 商人が崩れた。


 止まった。


 セラさんが、即座に動いた。


 倒れた商人の脇をすり抜けて、少年兵の側に屈み込む。喉に手を当て、傷の有無を確認し、それから薄い切創を見つけた指で、何も言わずに消毒液の小瓶を取り出した。


 主任看護師であるセラさんは、戦闘の最中も、戦闘の直後も、看護師としての仕事を遂行していた。


 商人を縛り上げた頃には、もう汗だくだった。


 肩の傷が裂けていた。


 血が、また脇腹を伝って落ちていた。


 まあ、生きてはいる。


「殿下、ご無事で」


「無事じゃない」


「歩けるなら、無事です」


「お前の基準は雑だ」


「兵站家令の家系の本義として、生き死にの基準は、歩けるか歩けないかだけでございます」


「家令の家系、業務範囲が広いな」


「広うございます」


 リューリックは少しだけ笑った。


 それから、商人のポケットと懐を、慣れた手つきで探った。


 出てきた物。


 暗殺者用の刃物、もう一本。


 毒の小瓶。


 折り畳まれた紙。


 病院の見取り図と、暗号らしき記号。


 帝国式の認識票が一枚。


 それと、もう一つ。


 リューリックの手が、そこで止まった。


「殿下」


「うん?」


「こちらをご覧ください」


 差し出されたのは、小指の先ほどの、青銅の札だった。


 札の表面に、図案が刻まれている。


 目。


 単純な、円の中に、目が一つ。


「……これは」


「覚えがありません」


「俺もない」


「帝国の意匠ではありません。少なくとも、私の知る正規の国家紋ではない」


「商人の趣味では?」


「商人ではありませんから、彼は」


 確かにこいつは商人ではなかった。


 では何なんだ。まともな仕事を生業にはしていないだろう。


 そう思いながら、俺はそれを手に取った。


 軽い。


 だが、安物ではない。鋳造の精度が高い。


 誰かが意図して、こういう図案を、こういう形で配っている。


 誰が。


 何のために。


 俺は知らない。


 知らないが、知らないことが、いちばん嫌な情報だ。


 札は、俺の懐に入れた。


「お見事でしたな、おふた方」


 声がした。


 戸口の方からだった。


 老軍医が立っていた。


 いつから見ていたのか。


 たぶん、ぜんぶだ。


「夜中に騒がしいと思って、来てみたのだ」


 老軍医は、商人の姿を見て軽く頷いた。


「補給商人が、夜中に薬品を盗もうとして暴れたか」


「……それは」


「うん。それで、傭兵レオンに見つかった。傭兵レオンが追って、組み伏せた。リューリックが援護した。商人は格闘の最中に頭を打ち、現在意識を失っている」


 老軍医は、机に近づき、商人が広げていた紙を一瞥した。


 それから、それを平気で燃やした。


 暖炉の火に、ぽい、と放り込む。


 俺は、思わず声を上げかけた。


 老軍医は片手を上げて止めた。


「お前さんが見たものは、お前さんが処理しなさい。野戦病院の老軍医は、何も見ていない」


「いいんですか、それで」


「いいわけがあるかね」


 老軍医は笑った。


「だがな、傭兵レオン。お前さんが王国軍司令部の取り調べを受けると、面倒なことになる。お前さんは、たぶん、調べられて困る男だ」


「……」


 傷口だけで、身の上まで測られた気がした。


 年寄りの医者というのは、たまに刃物より深く人を覗く。


 返す言葉に困っていると、老軍医は再び口を開いた。


「夜明けまでなら、記録を書き間違えることもある」


 俺は黙った。


「だが、夜明けは近い」


「老軍医殿」


「うん」


「……ありがとうございます」


「礼は後でいい。お前さんが、また生きてここに来た時でよい」


 老軍医は、暖炉の灰を眺めながら、ぽつりと付け加えた。


「私の知る限り、お前さんみたいに都合のいい怪我で運ばれてくる男は、年に一人か二人だ。たいてい、何かを背負ってる。何かを背負った男を、夜明け前に逃がしたことが、私の人生で何度あったか、もう数えるのをやめた」


「……そうですか」


「だから、今日も数えない」


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