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第一部 主任看護師セラと、ある間諜の話 ③~三百人目の傭兵~

 惚れるのは、得意だ。


 惚れて、振られて、忘れる。それが俺の平常運転だった。


 だが、この病棟のセラという女だけは、その平常運転を、少しだけ狂わせた。


 セラさんは、日々の業務で忙しかった。


 午前は薬品の調合、午後は包帯の交換、夕方は新しい患者の搬入と容態の確認。夜は、奥の小部屋で、彼女自身の食事と、たぶん少しの仮眠。


 セラさんは、誰よりも献身的にこの野戦病院の中で働き、多くの傷ついた男たちのために医療に従事していた。彼女の笑顔の多くは患者を安心させるための作り笑顔だったが、時折見せる自然な笑みに、俺はより彼女のことを目で追うようになっていた。


 俺が動けるようになってから、彼女はときどき、俺の包帯を替えに来た。


 二日目の昼。


 俺は寝台に座っていた。


 上半身は肌着だけで、包帯を巻きやすいように、シャツを下げていた。


 傷を負ったほうの肩は、まだ赤く、縫合の糸が見えていた。


 セラさんは何も言わずに、新しい包帯と消毒液の小瓶を持って、寝台の脇に屈み込んだ。


 彼女の指が、傷口に触れた。


 冷たい指だった。


 けれど、触れられている場所だけ、妙に熱い。


「痛ッ」


「痛いはずです」


「分かってる。別にやめてくれとは言ってない」


「もちろん、言われてもやめませんから安心してください」


 乾いた、業務的な声。


 ただ、指の動きだけは、おそろしく丁寧だった。


 俺はその指を、しばらく見ていた。


 長い指だ。爪が短く切ってある。爪の先に、薬草の汁が薄く染みていた。


 この指で、何人の傷を癒してきたのだろう。


 俺の視線に、セラさんが気づいた。


「何を見ていますか」


「傷を」


「傷はそちらです」


「知ってる」


「では、なぜ私の顔を見ているんですか」


「看護師の仕事ぶりを勉強している」


「嘘ですね」


「はい」


「正直でよろしいです」


 よろしい、と言った次の瞬間、セラさんは消毒液を容赦なく傷に当てた。


「ッッッ!」


 俺は反射で身をよじった。


 その拍子に、動かせる方の手が、セラさんの前掛けの端を掴んだ。掴んだ、というより、死にかけの猿が木の枝にしがみつくような本能だった。


 白い前掛けが、ぐい、と引かれた。


「ちょ、ちょっと!」


 セラさんはその反動で、俺の顔をめがけて覆いかぶさって倒れた。


 俺の視界が一瞬で真っ暗になると同時に、柔らかい何かが「ぷにゅ」と潰れた感覚とともに、何とも言えない幸せの香りが脳を刺激した。


 俺は反射的に視界を開こうと、その柔らかい何かをどけようとした。しかし、触れた手が思うようにその何かから離れない状況に混乱していると、色っぽい声が聞こえてきた。


「あっ、んっ、あ、うーーん」


 俺は本能的にその声を引き出そうと、柔らかい何かを揉みしだいた。


「あん、んんん、うーーん、もう、ちょっと、何してるんですか!!! ばか!!」


 その声と共に、セラさんはいつも持ち歩いている記録簿で俺の負傷している肩を叩き、空いている左手で思い切り頬を平手打ちした。


 天国から地獄。


 まさに言葉通り、天使の感触から地獄の業火に焼かれるような絶叫を上げて、俺はベッドを転げ落ちた。


「すいまっ、ごほっ、痛てぇぇぇぇぇぇぇ!!!! ぐはっ」


 いつもの作り笑顔が嘘のように、セラさんは顔を真っ赤にしながら、胸を隠すように腕で体を覆い、俺をゴミのように見て叫んだ。


「何をしているんですか、あなたは!! 死にたいんですか、この変態傭兵! 大人しくしてくださいって最初に言ったでしょう、全くもう!! バカ、もう死んじゃえ!」


 普段のセラさんからは想像もつかない言葉に、俺は凍りついた。


「セ、セラさん、そんなつもりじゃ……俺の手が、手が勝手に動いて」


 俺の社会的生命は、その瞬間、終わりを迎えた。


 騒がしさにつられ、集まってきた数人の看護師たちが、事態を正しく理解した。俺をゴミのように見る者もいれば、近づくのも恐ろしいように身を竦める者もいた。


「終わった……」


 俺は現実から目を背けるように、床に倒れ込んだままうなだれた。


 しばらくして、廊下の向こうで、リューリックの声がした。


「殿下、ご無事ですか」


「無事なものか!!」


「左様で。女性に叱られる程度にお元気で何よりです」


「お前、助ける気ゼロだな!」


「家臣として、正当防衛の妨害はいたしかねます」


 そんなことを言うリューリックの後ろから、セラさんが眉を八の字にしながら、頬をぷりぷり膨らませて顔を出した。セラさんは、情けなく肩の痛みに苦しみ、世界の終わりに直面して絶望したような顔をする俺をひと睨みした。


 それから小さく一呼吸した後で、すっと目を閉じた。


 再び目を開けた時、そこには主任看護師の顔があった。


「起きてベッドに戻ってください。治療の続きをします」


 俺はその言葉にほっとすると、力が抜けてしまったのか、思うように体が動かなかった。


「あのー、セラさん。本当にごめんなさい。悪気は全くなかったんです。反省します。だから起きるのを手伝ってくれませんか」


「甘えないでください。人の胸をあんなに揉む力があるんですから、自分で起きてください! バカ!」


 リューリックはセラさんの言葉を聞いて、自分が手を貸すべきではないと判断し、俺を見守ることにした。


「殿下、これは家令の家系の副業として、保護観察することにします」


「うるさい、ばかやろう! そんな副業あるか!!」


「はい、すみません」


 バカな傭兵の主従漫才を見ながら、セラさんがかすかに口角を上げたのが、唯一の救いとなったのだった。


 三日目の、夜半過ぎ。


 少年兵が、息を荒くした。


 俺は半ば眠っていたが、寝台の軋みと、走る靴音で目が覚めた。


 セラさんだった。


 ランプを持って、少年兵の寝台の脇に屈み込んでいる。


 軍医は呼ばれていなかった。


 たぶん、もう何度か繰り返した経験で、セラさんは「呼んでも変わらない」段階を、見分けるようになっているのだろう。


 少年兵の唇は白かった。


 俺は左手だけで起き上がった。


 痛みが肩に走ったが、今は、それどころじゃない。


「動かないでください」と、セラさんが小声で言った。


「動いてない」


「動いています」


「動いてないと、言いたい」


「言っても、動いています。下がってください」


 下がらなかった。


 寝台の縁に座って、俺は少年兵の頬に手を当てた。


 熱が高い。


 汗が出ていない。


 これは悪い。


 少年兵が、薄目を開けた。


「兄ちゃん」


「起きてるか」


「……寒い」


「寒いんだ」


「兄ちゃん、生き残るコツは、逃げる勇気って言ったろ」


「言ったな」


「俺、逃げ場所がないんだ」


 少年兵が、笑おうとして失敗した。


 俺は少しだけ考えた。


 それから、嘘半分、本気半分で、また話を始めた。


「お前さ、まだ生き残るコツの続きを聞いてないぞ」


「……続き、あるのか」


「ある。長い」


「兄ちゃん、嘘だろ、そりゃないぜ」


「嘘だ。でも、続きを作る間、お前は生きてないと駄目だ。死んだら、お前、続きを聞けないだろ」


 少年兵が薄く笑った。


 今度は、失敗しなかった。


「兄ちゃんは、変な奴だな」


「よく言われる」


「俺、続き、聞かなきゃ……」


「聞け」


「うん」


「眠るな。聞くんだから、眠るな」


「うん」


「俺の話は長いんだ。三晩はかかる」


「……三晩」


「最低でも、三晩だ」


 少年兵が、ふっと息を吐いた。


 呼吸が、ほんの少しだけ整った。


 それから、俺は語り始めた。


 ある王子の話を。


 亡びた国の話を。


 逃げた家臣の話を。


 燃えた城の話を。


 裏切った隣国の話を。


 そんな話を適当に組み合わせて、自分の古い傷を、少しずつ削りながら語った。


 途中で、どこまでが嘘で、どこからが本当なのか、自分でも分からなくなった。


 少年兵は、目を閉じた。


 だが、耳は開いていた。


 息は、まだあった。


 夜明け前、少年兵は眠った。


 熱が、少し引いていた。


 セラさんは、寝台の脇にいた。


 ずっと、いた。


 俺がそれに気づいたのは、東の窓が薄く白くなりかけた頃だった。


「……いつから、聞いてた」


「最初からです」


「立ち聞きか」


「私の病棟です」


 セラさんは低い声で言った。


「あなたの話、半分は嘘ですね」


「半分は本当だ」


「どっちが本当ですか」


「内緒だ」


「……ずるいです」


「セラさん、感情的だな」


 セラさんは何も言わなかった。


 ランプの火を、ふっと吹き消した。


 夜明け前の青い光の中で、彼女は俺の顔をじっと見ていた。


「あなた」


「何だ」


「百三人目の傭兵だと、思っていました」


 それだけ言った。


 セラさんは立ち上がった。


 病棟の奥へ歩いていく。


 足音は、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。


 俺は、まだ寝台の縁に座っていた。


 少年兵は眠っている。


 窓の外で、ゆっくりと夜が明けていく。


 ……まずいな。


 惚れすぎだ。


 今回は、ちょっと、まずい。


 肩はもう、自分で包帯を巻き直せる程度には固まっていた。



 ◇



 あの夜から、セラさんは少しだけ、俺の方を見るようになった。


 ただ「少しだけ」だった。


 業務中の彼女は、相変わらず患者を傷で処理する。


 右脇腹切創、深さ二寸。


 腹部貫通創、発熱あり。


 左大腿部裂傷、歩行不可。


 ただ、ときどき、俺と目が合った時に、ほんの一拍、視線が止まる。


 それだけだった。


 その「それだけ」が、まずい。


 俺は半日かけて、そう自分に言い聞かせ、半日かけて、忘れた。



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