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第一部 主任看護師セラと、ある間諜の話 ②~医者の娘~

一人目のヒロイン・セラの魅力がこれからドンドン出てきますよ!

 傷というのは、いつか必ず誰かに見られる。


 問題は、それが見て分かる相手かどうかだ。


 翌日の昼前に回診へ来た軍医は、最悪なことに、その見て分かる相手だった。


 老人だった。


 七十は超えている。白髪は伸び放題、髭も伸び放題。ただ、目だけが、おそろしくはっきりしている。手元には木の杖を持っているが、それは腰のためではなく、脈をとるための道具らしい。


 手首にひょい、と杖の先を当てて、目を細め、いくつか自分の中で数えていた。


「お前さんが、今朝の傭兵か」


「ええ。たぶん」


「たぶん」


「自分のことなのに、自信がないんで」


 老軍医は、ふっと笑った。


 笑った時の口元に、若い頃に酒をよく飲んでいた男の癖が、わずかに残っていた。


「肩を見せろ」


 包帯を解かれた。


 傷口を覗き込まれる。


 そのまま、軍医は何も言わなかった。


 長い沈黙だった。


 それから、ぽつりと、


「ずいぶん、都合のいい場所を斬られたな」


 俺は黙っていた。


「うん。よく出来てる。動脈は外してる。骨は削ってない。腱もぎりぎりで避けてる。──玄人だ」


 この爺さん、ただ者ではないな。


 さすがに毎日怪我人を相手にしている軍医だけあって、鋭い。だが、それが分かったところで、今の俺は実際にそこそこの重傷を負っている。堂々と入院生活を送る権利があるはずだ。


 そんな計算を一瞬ではじき出した俺は、とぼけた顔をして、俺が編み出した「重傷に見える軽傷になる斬られ方」をごまかすように答えた。


「……俺、ですか?」


「お前さんを斬った帝国兵が、だ」


 軍医は、にやりと笑った。


「とは、言わんよな」


 それだけ言って、軍医は包帯を巻き直した。


 ぎゅっと締められた。


 痛かった。


 声が出そうになるのを、ぐっと堪えた。


「お前さん、名前は」


「レオン」


「姓は」


「ない」


「ふん。主任にも、同じこと言ったか」


「言いました」


「同じ顔をしたか、あの子は」


「セラさん、ですか」


「そうだ。あの子がよくする顔。探るような顔だ。あれは医者の顔じゃない。医者の娘の顔だ」


「……」


「あの子の親父は、ちょっとした軍医でな。戦場で死んだ。十年ばかり前だ。死ぬ前に、いろんな男の傷を縫った。あの子は、その親父の手の動きを覚えてしまった子だ」


「若いのに、主任なんですね」


「若いが、あれは十代の頃から包帯と血の中におった。主任になったのは最近だが、手つきはずっと前から主任看護師のようだった」


 老軍医は、俺の肩を軽く叩いた。


「だから患者の顔より、傷を先に見る。お前さんも、傷で覚えられただろう」


「……肩をきつくやられました」


「だろうな」


「老軍医殿は、いろいろご存知で」


「年を取ると、覚えてないふりが上手くなる」


 老軍医はそう言って、別の患者の方へ歩いていった。杖を、また脈をとる手で握っていた。


 医者の娘、か。


 その情報は、しまっておくことにした。


 二日が過ぎた。


 俺の肩は、ゆっくりと閉じ始めた。


 その二日で、リヴェンの集落というのが、おおむね分かってきた。


 集会所を病院に転用したこの建物は、村の真ん中にあった。窓の外には、麦の苗がまだ短く緑になり始めた畑がある。畑の向こうには低い石垣。その向こうに、北の山並みが薄く見えていた。


 帝国の旗が、ほんの少し前まで、その山並みの向こうから降りてきていた、という話を、廊下で立ち話する村人から聞いた。


 今は、降りてきていない。


 降りてくる前に、たぶん、誰かが押し返したのだ。


 その「誰か」のうちの一人が、俺だった。


 らしい。


 俺はその「らしい」程度の活躍を、覚えていない。


 覚えているのは、矢が鼻先を掠めたことと、ぬかるみがブーツの底を吸って離さなかったことと、リューリックの「左です」、それくらいだ。


 戦場の記憶は、いつも、そういう細かい順序で残る。


 朝、集会所の前で、村の婆さんが麦粥を炊いていた。


 大鍋を二人がかりでかき混ぜている。


 負傷兵には、その粥が配られる。傭兵にも配られる。粥は雑な味がした。塩が少しだけ濃い。たぶん、塩で病人の体力を保とうとしているのだろう。


 最初の一口を口に入れた時、生きてる、と思った。


 二口目で、味の薄さに気がついた。


 三口目で、文句を言うのをやめた。


 戦場で文句を言うのは、お行儀の悪い若い兵士の特権だ。


 俺は、もうその年齢ではない。


 昼は、廊下をよく歩いた。


 歩けるようになると、寝ているのも飽きるからだ。


 中庭、廊下、納品口、軍医の控室の前、薬品庫の前。


 ただ歩いているように見えて、俺は、あの「商人」の動きを観察していた。


 リューリックの言う通りだった。


 商人は、納品の合間に必ず病棟の入口側を歩いた。歩きながら、目で何かを数えていた。寝台の数、軍医の巡回時刻、患者の搬入搬出。


 商人の顔、覚えた。


 四十前後の小柄な男だ。愛想は良い。


 ただ、手の指が、商人にしては綺麗すぎる。


 荷を運ぶ人間の指じゃない。


 商人は、俺の方も覚えていた。何度か廊下ですれ違った時、薄く、商売用の笑みで会釈をしてきた。


 俺も、同じ程度に会釈を返した。


 お互い、相手が知っていることを、知っていた。


 ただ、互いに、まだ動かなかった。


 戦場で覚える呼吸は、ここでも役に立つ。


 先に動いた方が、負ける。


 だから今は、互いに知らないふりをして、同じ廊下をすれ違う。


 嵐の前というのは、たいてい、こういう静かな顔をして近づいてくる。


続けてどうぞ!

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